戦禍を乗り越えた昭和6年生まれ。失った青春を定年後に取り戻す。ひ孫の顔が見えることに喜びを感じて
今年の12月8日で太平洋戦争が始まった1941年から82年が経ちます。戦争を知る世代が高齢化し、生々しい戦火の記憶が薄れつつある日本。一方、世界に目を向ければ、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとイスラム組織ハマスの軍事衝突のほか、紛争が長期化している国もあります。戦争がもたらすものは、どれほど悲惨なものか。そしてそこから立ち上がるための道のりとは。昭和6年生まれの斎藤ヒサさんは、当時子どもながら戦禍を乗り越えてきました。「死んだほうがマシ」と思った戦時下の学徒動員。がむしゃらに働いた高度成長期。そして旅行三昧の定年後。今は仲間たちと電話で近況を語り合う日々に。 * * * * * * * ◆第二の人生は旅のとりこ 高度成長期を駆け抜け、私は定年を迎えます。第二の人生のスタート地点に立った時、戸惑いました。がむしゃらに働くことしか考えてこなかったからです。 「さあこれからは、毎日が日曜日!今までいっぱい働いてきたから、ゆっくり休もうかしら。でも、退屈かも。どうしよう」とこぼすと娘が、「お母さん、戦争で修学旅行もなかったと言っていたでしょう?旅行したらきっと楽しいよ。退職金を全部使って楽しむの」と提案してくれました。 そうだ、確かに学生時代はとても修学旅行どころでなかった。美しいものを見て歩く旅をしよう! ちょうど、県の旅行会社で九州一周団体旅行の募集を見つけ、さっそく申し込んでみることに。今まで住んでいる県内から出ることさえなかったので、何もかも驚くことだらけです。
たとえば、初めての飛行機。あんなに大きくて重いものが空を飛んで、いったい大丈夫なのかと、死を覚悟して乗ったものです。朝家を出て、その日の夕方にはもう鹿児島に。なんて速くて、そして安全なのだろうと感激しました。 バスでの九州一周は、見るもの聞くものすべてが珍しく、私は好奇心を刺激されっぱなしで大満足です。 それからはすっかり旅のとりこになり、次の旅行先を考えていた矢先、高齢の母が倒れました。 旅行どころではなく、忙しく母の介護をする日々を送っていたらある日、仲の良い同級生から「昭和一桁は、親を看る最後の世代。私たちはもう、子どもに面倒を見てもらえないんだよ」などと言われます。それでも、やるべきことはやらねば。 母は闘病の末、子どもや孫たちに見守られながら90歳で死去。私は四十九日が過ぎると、すぐに旅を再開しました。 親を見送ったし、子どもは独立済み。もう私がすべき役目はありません。仏壇の母に「行ってくるよ」と言って、北海道から沖縄、ついには、海外にも行くことができました。