太平洋戦争開戦へのカウントダウン!世界の緊張感を雑誌はどう伝えたのか?
昭和15年(1940)9月27日、ベルリンで日独伊三国同盟が締結された。一般の日本人にとってヨーロッパで起きている戦争は遠い世界の出来事で、自分たちは目の前で起きているアジアの戦争で手一杯、そんな気分だった。 戦争の当事国と軍事同盟を結んだことで、日本にもより大きな戦争の足音が確実に近づいて来た。そんな緊張感に包まれ、昭和16年(1941)という年が明けた。『写真週報』の昭和16年1月1日号は、増ページされた特大号で、表紙は支那(しな/中国)の家庭の正月風景である。そこからはまだ平和な空気感が漂っているのが感じられる。 そして総扉を飾った写真は、巨匠の木村伊兵衛が撮影した「漁村曙」。千葉県九十九里港の朝、多くの人々が立ち働く姿がシルエットで映し出された、新年号らしい1枚だ。続くページは艦上の新年、大陸で活躍する戦車部隊のグラビアとなっている。 その後の特集は、陸軍の兵器工廠をルポしたものが8ページに渡って掲載。通しのタイトルは「堪えて忍んで産むのだ兵器」。長引く大陸での戦争で、国民生活が逼迫していようとも、勝利のために耐え忍ぶことを、改めて訴える記事となっている。 概ね戦時色の強い構成となっているが、働くドイツ婦人のファッション紹介、宮城県と静岡県の15人もの子宝に恵まれた家族紹介など、肩の力を抜いて読める記事もあった。 そして1月15日号の表紙はドイツのウルズラさんが近衛文麿(このえふみまろ)、日本の明子さんはムッソリーニ、イタリアのフランチェスカさんがヒトラーの顔が描かれた羽子板を掲げている絵柄。巻頭特集も「日独伊三国のお嬢さんを迎えた正月」というものであった。さらに巻末にはドイツ特集も掲載されているという、国際色豊か(?)な構成であった。 2月5日号になると、同じ国際色でもアメリカの兵器増産が特集されている。その前の総扉ページでは、日米の関係改善を期してアメリカへと旅立つ駐米特命全権大使・野村吉三郎(のむらきちさぶろう)海軍大将が、駐日米国大使グルーと握手を交わす光景が掲載されている。 その次からすぐ、アメリカが日本を意識して軍艦や航空機などを量産している、という記事が続いているのが何とも言えない。ちなみにこの号の表紙は、ボストンの海軍造船所で、新鋭駆逐艦メレディスが今まさに進水しようとする瞬間を捉えたものであった。 この年の春先は、その後の日本を運命づける大きな外交交渉が行われている。それは外務大臣・松岡洋右(まつおかようすけ)が強く推し進めていた、日本とソ連の条約締結であった。そのために松岡は、ソ連に赴いている。4月23日号で扱われている海外情報は、3月23日にモスクワを訪問した松岡外相を迎えるソ連当局の歴々と、駐ソドイツ大使の様子が掲載されている。 松岡外相はその後、同盟国ドイツにも訪問している。続く見開きページでは3月26日に、ベルリンに到着した松岡外相を出迎えるドイツの高官たち、さらに次の見開きページはベルリン市内で松岡外相を歓迎するパレードが行われている光景が掲載されている。 松岡の構想は「日独伊三国同盟にソ連を加え、強大なアメリカに対抗する」というものであった。だが中国からの反発をかわすことや、ドイツが近いうちに攻撃してくることを予測していたソ連は、軍事同盟ではなく中立条約にとどめるように画策した。「日ソ中立条約」は4月13日に締結されるが、その2カ月後の6月22日には独ソ戦が始まる。松岡外相は、ソ連だけでなくドイツの術中にも嵌(はま)ってしまったのである。 それはともかく、日ソ中立条約は北からの脅威を取り除く効果は絶大であった。この後、日本の目は南へと向けられる。その手始めが、前年に北部に進駐していた仏印だ。7月28日、日本は残された南部仏印にも、軍を進駐したのであった。これが継続中の日米交渉に多大な悪影響を与えたことは明白。実際アメリカは、日本に対する全面的な石油の禁輸を通達してきた。 まさに戦争へ突入する引き金を引いた行為であったが、8月13日号の総扉では、アメリカ、イギリス、中国、オランダによる包囲網、いわゆる「ABCD包囲」が描かれ、日本の正当性を訴えている。より大きな戦争が間近に迫った、そんな緊張感が伝わってくる誌面だ。
野田 伊豆守