『虎に翼』寅子が母・はるとの別れで子供のように泣きじゃくった「大事な理由」
6月18日(火)第57回:道男は子供時代の傷ついたよねでもある
「俺らを虫けらみたいに見てきやがって」と、大人たちへの反発を露わにする道男。彼に代表されるような、社会や大人に対する反抗的で挑発的な言動は、非行少年や被虐待児、アダルトチルドレンなどにしばしば見られる「試し行動」と呼ばれるそうだ。 道男の言動を通して気がつくのは、よねのこれまでの言動もまた、親に身売りされ、大人から搾取されてきた子供時代の傷がまだ癒えていないということだ。だからこそ、道男をはじめとする戦災孤児たちはよねを頼り、彼女には心を許すのだろう。 「机の上で理想をこねて結局さじを投げる」というよねのセリフは、役人への不信感だけでなく、現実に押しつぶされて自分に相談もなく勝手に逃げた(と思っている)寅子にも向けられている。 寅子に対するあたりの強さは、一度は信じて心を開いたのに裏切られたショックが、これまで自分を虐げてきた大人たちへの怒りや悲しみを触発してしまうからだろう。 そんなよねを「おっさん呼ばわりするやつに名乗る名はない」と正しく叱ったのは多岐川である。孤児たちのリーダー格が道男だとすばやく見抜くや「君たちを拒んだりはしない」と同じ目線で声をかけ、よねと轟が何者かわかってからは「地域に根ざした支援。素晴らしいじゃないか」と同志として激励する。そのプロフェッショナルな対応ぶりは、さすが家庭裁判所の父だ。 寅子が「私だけでは無理よ。でもよねさんと轟さんだけでも無理」と語るように、理念と実践、制度と運用、行政とよねや轟のような民間活動は、常に連携しながら両輪で回していかなければならないもの(まさに「社会的性格」だ)。 そう自分で言っておきながら、売り言葉に買い言葉で道男を猪爪家で引き取ることに決め、どちらも一人で抱え込もうとする寅子がちょっと心配になる回だった。
6月19日(水)第58回: 強者と弱者は誰の中にも共存する
昨日、猪爪家に引き取られてきた道男が、態度の悪さを指摘されて「俺がひれ伏せば満足?」と返した場面で、思わず「真の弱者は助けたくなる姿をしていない」という医療・福祉の世界の言葉を思い出した。 そして、まさにそんな「弱者を助ける」ことの難しさに直面するような出来事が起きる。自分のことを他の家族同様に対等に扱ってくれる母・はるの働きかけもあって、徐々に態度を軟化させていた道男。しかし、そのスーツ姿に亡き夫・直道(上川周作)の面影を見て思わず涙する猪爪花江(森田望智)に、道男は「自分が直道の代わりになれないか」と迫ってしまうのだ。 道男の扱いの難しさは、精神的には守られるべき「子供」であると同時に、体格的には周囲に危害を加えうる大人の「男性」でもあること。さらに複雑なのは、粗暴な言動で子供たちに恐怖を与え、花江に間違った距離感で迫ってしまう(のちに語られる通り、道男は花江を必ずしも「女として」だけ見ていたわけではないが)その「加害者性」は、大人たちから十分な愛情を受けられず預け先から疎外・虐待されてきた「被害者性」がもたらしたものでもあるということだ。 そして、道男という存在を通して炙り出されるのは、寅子もまた、家族の愛情に恵まれ経済的にも豊かに育った「強者性」と、女性として理不尽な扱いを受けてきた「弱者性」をあわせ持った矛盾した存在だということ。 それは猪爪家の他の女性たちや子供たちもしかり。少年少女を保護するボランティア活動に勤しむ猪爪直明(三山凌輝)も、道男の中に善性を見出そうとするが、「いいやつなら助けてやるって? じゃあ悪いやつは助けないってこと?」と言い返されてしまう。「いい人なら助けてあげたい」という無邪気な良心の裏に隠された、無意識の特権意識や選民意識から私たちが抜け出すのは難しい。 SNSでは寅子の言動に対して、自分勝手で一貫性がなく共感できない、という批判もあるようだが、その矛盾や二面性こそが人間の抱える厄介なところそのものであり、寅子たちが「間違える」人間であることを逃げずに描いていると私は思う。