時代考証が長徳の変を解説! 道長最大の政敵・伊周が自滅した理由
従者同士の闘乱で童子二人が殺害
20話では、長徳二年(九九六)正月に始まった「長徳の変」、中宮定子(ていし)の最初の懐妊に関わる参内、そして紫式部の父である藤原為時(ためとき)が十年ぶりに官を得た長徳二年の除目(じもく)が語られる。 まずは「長徳の変」の実像について説明しよう。すでに長徳元年に、藤原伊周(これちか)やその弟の隆家(たかいえ)は、道長との反目を強めていた。 長徳二年が明けると、正月早々、「長徳の変」が起こった。この政変の発端について、『栄花物語(えいがものがたり)』巻第四「みはてぬゆめ」は、花山(かざん)院と伊周が故藤原為光(ためみつ)の三女と四女をめぐって誤解を来たしたという背景を語っているが、史実として確認できるのは、『三条西家重書古文書(さんじょうにしけじゅうしょこもんじょ)』が引く『野略抄(やりゃくしょう)』(『小右記』の逸文)正月十六日条の、 右府(うふ)(道長)の書状に云ったことには、「花山法皇が、内大臣(伊周)・中 納言隆家と故一条太政大臣(為光)の家で相遇し、闘乱が起こった。御童子二人を殺害し、首を取って持ち去った」と云うことだ。 という記事からわかるように、花山と伊周・隆家が、故為光家(一条第〈いちじょうてい〉。後の一条院内裏〈いちじょういんだいり〉)で遭遇して闘乱に及び、花山の随身していた童子二人が殺害されて首を持ち去られたという、従者同士の闘乱である。 なお、『小記目録(しょうきもくろく)』には、「華山(かざん)法皇と隆家卿と、闘乱の事」とあり、花山の従者と闘乱を行なったのは隆家の従者であったようである。
伊周の自滅
この情報を検非違使別当の実資に伝えたのは道長であったが、道長はこの事件にはまったく関与しておらず、まさに伊周の自滅であった。二月五日には、精兵を隠しているという噂のある伊周家司(けいし)の宅を検非違使(けびいし)が捜索しているが、実資に細かな指示を出していたのは道長ではなく一条天皇であった(『小右記』)。 二月十一日、伊周・隆家の罪名を勘申(かんじん)させよとの命が下ったが、これも道長をはじめとする公卿(くぎょう)は、その決定を聞くまで何らこの件に関与しておらず、一条がこの件に関しても主導していた(『小右記』)。 三月二十八日には東三条院藤原詮子(せんし)の病悩(びょうのう)に対して、「或る人の呪詛(じゅそ)である」「人々は厭物(まじもの)を寝殿(しんでん)の板敷(いたじき)の下から掘り出した」といった噂がささやかれた(『小右記』)。 さらに四月一日には、伊周が臣下の行なってはならない太元帥法(たいげんのほう)を修して道長を呪詛していたことが奏上された(『日本紀略(にほんきりゃく)』『覚禅鈔(かくぜんしょう)』)。もちろん、その真偽は明らかではない。 伊周と隆家については、四月二十四日に行なわれた除目(じもく)において、それぞれ大宰権帥(だざいのごんのそち)と出雲権守(いずものごんのかみ)に降すという決定が下された。 配流宣命に載せられた罪名は、「花山法皇を射た事、女院(にょういん)(詮子)を呪詛した事、私に太元帥法を行なった事」であった(『小右記』)。「花山法皇を射た事」とはいっても、「法皇の御在所(ございしょ)を射奉った」(『日本紀略』)とあるように、闘乱の過程で花山の坐していた輿(こし)に矢が放たれたという事態が起こったことを指し、花山院自身を狙ったわけではない。ともあれ、こうして道長は、最大の政敵を自然と退けることができたのである(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。