時代考証が長徳の変を解説! 道長最大の政敵・伊周が自滅した理由
---------- 2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。 ---------- 【写真】貧乏学者の娘・紫式部と右大臣家の御曹司・藤原道長の本当の関係は?
日記を始めたのが遅かった道長
大河ドラマ「光る君へ」19話では、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』の書き始めに関わるシーンがあった。ここで藤原道長の『御堂関白記』がいつから書き始められたのか考えてみよう。 現在、近衞(このえ)家の陽明文庫(ようめいぶんこ)に残されている『御堂関白記』は、道長自筆本が長徳(ちょうとく)四年(九九八)後半から寛仁(かんにん)四年(一〇二〇)前半に至る十四巻、孫の師実(もろざね)の代に書写された古写本が長徳四年後半から治安(じあん)元年(一〇二一)に至る十二巻である。 通常、日記を記録し始めるのは、かなり若い時であることが多い。たとえば藤原実資(さねすけ)の『小右記(しょうゆうき)』は、二十一歳で右少将であった貞元(じょうげん)二年(九七七)、藤原行成(ゆきなり)の『権記(ごんき)』は、二十歳で左兵衛権佐であった正暦(しょうりゃく)二年(九九一)の任大臣の儀から始まっている。両方とも、さらに前から記録していた可能性もある。 一方の道長は、自筆本が残っている長徳四年だと三十三歳で内覧兼左大臣、日記を記録し始めた可能性の高い長徳元年(九九五)でも三十歳で内覧兼右大臣と、ずいぶんと年齢を重ねて、しかも政権の座についてから、日記を記録し始めている。 道長の父祖でいうと、父の兼家(かねいえ)は日記を記録した形跡がないが、祖父の師輔(もろすけ)の記録した『九暦(きゅうれき)』は二十三歳で右兵衛佐であった延長(えんちょう)八年(九三〇)から、曾祖父の忠平(ただひら)の記録した『貞信公記(ていしんこうき)』は二十八歳で参議であった延喜(えんぎ)七年(九〇七)から、日記を記録し始めている。 ちなみに実資の養父であった実頼(さねより)が記した『清慎公記(せいしんこうき)』はすべて逸文(いつぶん)であるが、十七歳で阿波権守に過ぎなかった延喜十六年(九一六)の記事から残っている。道長の記録開始時期がきわめて遅いことをご了解いただけよう。 これは、道長が漢文が苦手だったことに原因があるものと思われる。名門の出身だったために大学に入って学ぶこともなく、また若年時に三ヵ月弱、蔵人を経験した以外は弁官や蔵人などの実務官人を経験することもなく、おまけに陣定の定文を執筆する参議を経ることなく、いきなり権中納言に上ったために、漢文に習熟する機会がなかったのである。『御堂関白記』のはじめの頃の漢文は、何だか話し言葉をそのまま漢字で表記したような漢文である。