長嶋茂雄は「5歳下・王貞治の三冠王を5回阻止」、広岡達朗も困った守備範囲…「馴れ合いじゃないON巨人」とライバル史は現代指標でも衝撃的
11年間で9回も…ダイナミックな守備は魅力だった
「長嶋茂雄の前の巨人の正三塁手は誰か?」は結構なトリビアだが、1957年の巨人の正三塁手は長嶋と同学年で、松本深志高出身の土屋正孝。のち国鉄に移籍している。 1957年のRF1位は国鉄(現ヤクルト)の箱田だった。ちなみに広島の広岡富夫は、元巨人でヤクルト、西武などの監督として活躍した広岡達朗の兄だ。 翌1958年入団した長嶋は、打撃だけでなく、三塁手としても一挙にトップに立つ。主として三塁ゴロである補殺数385はダントツ。守備範囲が抜群に広かったのだ。ただし三塁守備でライバルと言われた阪神の三宅は守備率で長嶋を上回っている。 1959年も長嶋がRFでは1位、長嶋は以後も三塁手として抜群の守備成績を収め、1967年までの11年間で9回RFで1位になっている。以後、守備範囲は狭くなったが、ダイナミックな守備は引退するまで長嶋の魅力だったのだ。
名遊撃手・広岡の守備範囲が数値的には狭まった
実は、抜群に守備範囲の広い長嶋が三塁手としてデビューしたことで、かなり難儀していたと推測されるチームメイトがいる。巨人の正遊撃手・広岡達朗だ。 同じ東京六大学の花形選手として1954年に早稲田大から巨人に入った広岡は、阪神の吉田義男とともに「名遊撃手」の名をほしいままにしていた。 長嶋入団前年の1957年には広岡はRF5.07で、セ遊撃手の中でトップだった。ライバルの吉田義男は4.40で4位。それが、長嶋が入団した1958年になると、広岡のRFは4.39まで低下し4位になる。吉田義男は4.98で1位。広岡の守備処理数は15%近く減少してしまったのだ。 三遊間に打球が飛んで、広岡が身構えると、長嶋が派手な動きで飛び出してきて、横っ飛びでボールをつかんで一塁に送球した――とは、昭和の野球ファンの昔語りだが、この数字はそれを如実に物語っている。広岡達朗の渋い顔が目に浮かびそうだ。 そんな打者・長嶋茂雄のライバルと言えば、誰の名前が浮かぶだろうか。 まず、大洋ホエールズの近藤和彦を挙げたい。長嶋と同学年、平安高時代に甲子園出場。東京六大学では明治大のスター選手として立教大の長嶋としのぎを削っていた。 長嶋は入団2年目の1959年から60年、61年と3年連続で首位打者になるが、60年、61年の打率2位が近藤だった。俊足の左打者でアベレージヒッターだったが、打率2位を4回記録するも、ついにタイトルは取れなかった。後年はフジテレビの「プロ野球ニュース」での穏やかな京都訛りの解説が耳に残っている。 ついで、広島カープの古葉毅(のち竹識)だろう。 古葉は長嶋の1学年下。長嶋が4度目の首位打者を取った1963年、古葉はシーズン最終盤までもつれる激しい首位打者争いを演じた。長嶋を激しく追っていた古葉は10月12日の大洋戦で顎に死球を受けて以後、欠場。この時点で長嶋の打率は.345だったが、古葉との勝負がついて以降も試合に出続け、最終的に長嶋茂雄.341、古葉毅.339とわずか2厘差で長嶋がタイトルを獲得した。 古葉は現役生活晩年に野村克也監督の南海に移籍、引退後もコーチとして野村監督の下で学び、長嶋が引退した翌年の1975年、監督として広島を初優勝に導くのだ。
【関連記事】
- 【第1回→】長嶋は記憶だけでない…“王やイチロー、落合に大谷級”の凄まじい成績と記録だった
- 【レア写真】「後楽園での伝説の引退スピーチ」「パジャマ姿に女子高生がウットリ…長嶋さんと王さんが私服で芝生ゴロン…散髪してる姿も激写」昭和のスター感がすごい…“愛されまくりのミスター”を全部見る
- 【第2回→】長嶋茂雄22歳は「新人で三冠王+トリプルスリー」まであと一歩だった…キャリア18年通しても「プロ野球史上最強のサード」と断言できるワケ
- 「巨人のユニフォームを見ただけでチビったよね(笑)」ヤクルトの大エース・松岡弘が語る“全盛期の王・長嶋”の恐ろしさ「とにかく重圧が…」
- 「元アナウンサーと婚約した」誤報も…長嶋茂雄&王貞治「婚約スクープ合戦」“ネットのない時代”のやりすぎ感「新聞記者はここまでやった」