金で買った結婚に反論「炭堀りには炭堀りの人格がある」伊藤伝右衛門(上)
不躾な記者の質問に「無教育の男でも、炭堀りには炭堀りだけの人格があるつもりです」
このころ伊藤に「着炭代議士」の仇名が付けられる。伊藤が無事東京に着いて地元に打った電報が「ブジチャクタンス」という電文であったことに由来する。着炭とは石炭の荷が到着したことをいうが、言葉の使い方を知らない田舎者といった冷やかし気分も含まれていた。「チャクタン」を巡っては別の説もある。前出の伝記作家高田昭はこう記している。 「伝右衛門は貧しくて寺子屋にいく余裕がなかったし、それが珍しくない時代であった。牟田炭坑では念願の大断層を抜き払い、良質の石炭に遭遇した。『ブジチャクタン』には欣喜雀躍した伝右衛門の高揚した気分がうかがえる」 戸山銃声のエピソード集「奇人正人」でも代議士時代の伝右衛門について大きなスペースを割いている。デンネムの名がすでに全国に轟いていたことをうかがわせる。 「議会で勅諭奉読の式場に載帽のまま乗り込んで守衛にとがめられ、東京に到着したのを着炭したといって笑われた。討論終結とともに各員起立によって採択し幕となると、彼はいずれに起立していいか面食らってしまう。彼以上に政友会が狼狽し彼のために特に起立指導員を付けてあったという珍談も残っている」 デンネムの生涯で伯爵令嬢との結婚の件ははずせない。1910(明治43)年、デンネムは糟糠の妻ハルと死別する。翌年、デンネムは柳原前光伯爵の娘、あき子と再婚する。デンネム52歳、あき子27歳。その年令差もさることながら石炭成金と伯爵令嬢との取り合わせが世間の耳目を集めた。柳原家は明治維新までは五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)に次ぐ名門公卿である。加えて大正天皇の従姉妹に当たる。東洋英和女学校でシェークスピアを学び、佐々木信綱の門に入り和歌をよくし白蓮と号した。 瀬戸内寂聴女史は言う。 「金に転んだという風評であった。伝右衛門は白蓮(あき子)のために福岡に屋根を銅で葺いた豪壮な邸を建て、世間はそれを『あかがね御殿』と呼んだ。白蓮はまさに女王のようにその御殿で贅沢三昧の生活を送った」 不躾な記者の質問に温厚円満居士の伝右衛門が啖呵を切ったのはこのころだ。 「無教育の男でも、炭堀りには炭堀りだけの人格があるつもりです。金で買った結婚などといわれては、この伝ネムの男がすたります」-伝右衛門が男の「意地をみせた一世一代の名セリフとして今日に伝わっている。炭堀りを素姓いやしいとみる当時の風潮に向かって「よくぞ放った伝右衛門」と地元民は拍手を送る。=敬称略※あき子の「あき」は火へんに華。 ■伊藤伝右衛門(1860-1947)の横顔 万延元年福岡県飯塚市で貧しい家庭に生まれた。父の行商を手伝うかたわら、川舟の船頭をやったり、猫堀り(小規模採炭)で家計を助けた。1898(明治31)年牟田炭坑の開発に成功、筑豊のご三家(貝島太助、麻生太吉、安川敬一郎)に伍す炭坑事業家となる。1903(同36)年総選挙に出馬、当選(2期)、政友会に所属、1911(同44)年、柳原伯爵の庶子と再婚、大正時代には教育事業へ出資したり、コメ騒動では大手財閥並みの多額の寄付するなど社会還元に努めた。