金で買った結婚に反論「炭堀りには炭堀りの人格がある」伊藤伝右衛門(上)
牟田炭坑の開発に成功し、一代にして炭鉱実業家となったデンネムこと伊藤伝右衛門は、貧しい家庭に生まれ、読み書きはできなかったけれど記憶力が抜群で、人を見抜く才能があったと言われます。ほとんど無学でしたが、その見事なまでのたたき上げの精神と気取らぬ態度で、炭鉱から多くの人たちの信頼を集め、さらには銀行経営に乗り出し、果ては衆議院議員まで務めました。 また、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」では、主人公の生涯の友である蓮子の夫・嘉納伝助のモデルとして描かれました。蓮子のモデルは紛れもなく歌人・柳原白蓮でした。伝助は粗野で教養のない炭鉱成金でしたが、潔く妻の駆け落ちを許すという男気が人気を博しました。 実際の伊藤はどのような人物だったのでしょうか? 人柄がにじみ出る言葉と経済人としての功績を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
一代にして炭鉱王に登りつめ、銀行経営や衆議院議員にも
作家の野坂昭如が「デンネムさんに盃を」と題し、炭鉱王伊藤伝右衛門を称えている。 「伝右衛門、通称デンネム、遠賀川の船頭から身を起こし、一代で産を築いたのだから、一筋縄ではいかない人物に違いなく、しかし炭鉱王としては評判がいい。それはもうあき子夫人に駆け落ちされたからに違いなく、また毅然としてこれを許し、逃げた女房にいっさい未練を残さなかったことでもあろう」 1897(明治30)年官営八幡製鉄所の設立が決まり、原料炭確保のため伊藤伝右衛門の持ち山が売れた。伊藤はこの売却代金で次々と新しい炭坑の開発に乗り出す。伊藤は「余人が不可能というところにしか成功の蜜は味わえない」との信念のもと、貝島太助が途中で採掘を断念したような鉱区も引き取って堀り進んだ。 1913(大正2)年には伊藤の出炭量は年産40万トンを記録、麻生に次ぐ2番手に踊り出る。伊藤はエピソードの多い男である。それは男の勲章でもある。孫の伝之祐が祖父について語っている。 「伝右衛門は字は読めないといいながら、記憶力が抜群で、それはどういう数字になるか、勘定はどうか、大体わかっていた。観察力も鋭く、会った人の名前は皆インプットされていて、会う人はじっと話を聞いていて、どんな人か、信用していいか、ならんか、よくわかっていた。炭坑という荒くれ男のしがらみがからんだ中で、いろんな目に遭ってきたせいでしょう」(高田昭著『炭坑王伊藤伝右衛門』所収) 伊藤は日ごろよく言っていた。「カネは稼ぐのも難しいが、カネを貸すのも難しいぞ」。当時は資産ができると銀行を経営するのが定石であった。伊藤も麻生太吉が頭取を務める嘉穂銀行の取締役に就く。銀行にはあらゆる情報が集まってくる点も伊藤には魅力だった。そして衆議院に議席を置く。これも富力の象徴であった。