藤原道長にいいように利用され、最後は天皇の座を奪われた…2人の中宮を持った一条天皇が迎えた悲しい最期
一条天皇とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「皇后定子が亡くなった後は、藤原道長のプレッシャーに負け、彰子との間に子を持った。その行為が彼の運命を狂わせた」という――。 【図表】藤原家家系図 ■NHK大河で描かれた道長の「待ち望まれた日」 藤原伊周(三浦翔平)が、中宮彰子(見上愛)を必死に呪詛した効果も空しかった。寛弘5年(1008)9月11日、彰子は無事に皇子を出産した。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第36回「待ち望まれた日」(9月22日放送)。 一条天皇(塩野瑛久)にはすでに、亡き皇后定子(高畑充希)が長保元年(999)11月7日に産んだ第一皇子、敦康親王(渡邉櫂)がいた。定子の兄で、敦康の伯父にあたる伊周は、いうまでもなく、甥が皇位を継承することを望んでおり、その立場を脅かす第二皇子の誕生は、伊周にとって大きな不安材料になった。 だが、藤原道長(柄本佑)にとっては、長女の彰子が敦成と名づけられた皇子を出産した日は、文字どおりの「待ち望まれた日」だった。敦成が皇位を継承すれば、道長は外祖父として摂政となり、その権力を盤石なものとすることができる。その可能性が一気に高まったのである。 ドラマでは、道長はまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に、彰子の出産の様子を記録するように依頼したが、実際、『紫式部日記』は、そうして書きはじめられたものと考えられている。そしてそこには、道長が皇子を抱き上げると、皇子は粗相をして道長の着物を濡らしたが、道長は「濡れてうれしい」とよろこんだと記されている。 藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』にも、道長は仏神の助けによって出産を平安に遂げられ、よろこぶ様子は言い表せないほどだったと書かれている。
■一条がよろこんだという史料はない 一方、敦成の父である一条天皇はどうだったのか。もちろん、それなりにはよろこんだのだろう。 出産は当時の慣例に倣って、彰子の実家、すなわち道長の邸宅である土御門殿で行われ、その後、敦成は11月17日に、はじめて内裏に参入することになっていた。しかし、一条天皇はそれでは遅すぎるからと、10月17日、みずから土御門殿に行幸している。道長の日記『御堂関白記』によれば、そのとき一条は敦成を抱き、親王の宣旨(天皇の命令を下達すること)をくだした。 ところが、一条天皇が敦成親王の誕生をよろこんだという記述は、史料上には見つけられないのである。 すでに第一皇子がいるところに第二皇子が産まれただけなら、珍しいことではない。しかし、敦成の誕生は、第一皇子は後見人の力が弱いのに対し、第二皇子は時の最高権力者の外孫だという、大きなねじれにつながった。それを憂うる気持ちが、一条にはあったのかもしれない。 事実、敦成親王の誕生は、その後の一条の幸福につながったかというと、そうは言い切れない。一条は道長に導かれるようにして、そんな状況を生み出してしまったことに、忸怩たる思いがあったのかもしれない。 ■道長から受けたすさまじいプレッシャー 長保元年(999)11月に入内したとき、彰子は数え12歳だった。天皇の子を産むにはいかにも若すぎたが、それだけではなく、そのころ一条の心は皇后定子に占拠されていた。 一条と定子は政略結婚による夫婦だったが、当時としてはレアな「純愛」を貫き、長保2年(1000)末に定子が没してからも、定子の後宮を美化して描いた清少納言の『枕草子』の力も相まって、一条の心は定子のもとに留まった。彰子が成長してもその状況は変わらなかった。 彰子が19歳になっても、一条は彼女の後宮に渡って来ず、懐妊の兆候は一切ない。そこで寛弘4年(1007)8月、道長は奈良県吉野町の霊山、金峯山に詣でたのである。それは単なる寺社参詣ではなかった。 まず、参詣する前に75日とか100日にわたり、閉所にこもって酒も魚も女も断つ「精進潔斎」が必要だった。それを終えてから予行演習を重ねていよいよ参詣するのだが、山中には鎖を伝って登らなければならない岩もあるなど、参詣自体が命がけだった。しかも、そこに名立たる高僧をふくむ大勢の僧侶や人足を連れて登り、大量の品々を献上し、読経や祈祷を繰り返した。 道長が真っ先に向かったのが、子供を授かりたい人が祈願する「小守三所」だったことからも、この国家行事と呼べるほどの大がかりな参詣の最大の目的が、彰子の懐妊祈願であったことはあきらかだった。最高権力者にここまでされれば、一条天皇も大きなプレッシャーを感じ、彰子との子づくりに励まないわけにはいかなかったことは、容易に想像できる。