硫黄島「日本兵1万人」が行方不明の謎…多くの人が知らない「空白の15年間」と「日本人墓地発見」
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
遺骨行方不明の要因5「空白の15年間」
思い出したように再開された政府の遺骨収集事業。1953年に1回行われただけだった硫黄島に政府が再び調査団を派遣したのは1968年のことだ。1968年度報告書には、遺骨収集再開の根拠となる「硫黄島戦没者遺骨の調査及び収集等に関する実施要領(案)」も綴じられていた。これには再開に至る経緯が記されていた。 〈昭和四十三年六月二十六日小笠原諸島返還に伴い緊急を要する国民的課題として処理すべき問題は、まず同諸島中の硫黄島における遺骨収集問題である。硫黄島においては、過ぐる大戦において約二万名の将兵が玉砕している。政府は昭和二十七年に同島の遺骨調査を行ない、翌二十八年一部の遺骨の収集を実施し、一応の慰霊を行なったところであるが、同島における米軍管理下の特殊な事情により完全な調査及び収集は実施できず今日に至ったところである。以上の事情にかんがみ、同島の返還を期として、この課題を解決するため、すみやかに国において所要の方途を講ずることとし、もって民生の安定に寄与しあわせて遺族の要望にこたえたい〉 つまり、収集再開は1968年6月、硫黄島を含む小笠原諸島の施政権が米国から日本に戻ることを一次的な発端とした。 多くの遺骨が残存している状況を〈緊急を要する国民的課題とし処理すべき問題〉として捉え〈遺族の要望にこたえたい〉としていることから、当時の世論の沸騰も背景にあったと推察される。計画では、調査に重点を置く第1次調査団が8月に上陸し〈遺骨の所在の現状を把握する〉。 上陸期間は9日間とした。その上で、第2次調査団を送り、さらに詳細な調査を実施。それらの結果に基づいて同年度中に〈相当な工事作業を伴う大規模な遺骨収集を実施〉するとした。開示された1968年度の報告書は、第1次と第2次の2冊あった。 このうち第1次の報告書は、1953年に行われた戦後唯一の遺骨収集からの“空白の15年間”で、遺骨を巡る状況がどう変化したのかを伝える貴重な記録だ。 調査団員たちが目撃したのは、さらに変貌してしまった島の姿だった。〈昭和27年(1952年)に(中略)調査を実施した際に開口していた地下壕も、A地区28個のうち1個を残し、その他は全部その後に閉塞され〉ていた。A地区とは、栗林忠道中将もいた司令部壕など重要拠点が集中したエリアだ。戦後7年の時点ではあった壕の多くが“空白の15年間”で塞がれてしまっていたのだ。 こうした壕の消失など〈地形の変ぼうが大きい〉理由も記されていた。〈地形の変ぼうは、戦闘間における砲爆撃、戦闘直後におけるB29支援のための戦闘機用飛行場の建設(特に広大な飛行機置場の建設)、その後において国際不時着場として使用するための拡張工事、戦場掃除(戦闘直後及び昭和24~30)及びロラン局の設定等によるほか、地殻の変動によるものである。このため地下壕の半数は完全に埋没破壊されているものと推定される〉。 ロラン局とは、米軍が島北部に整備した電波通信施設を指す。島中心部の滑走路のさらなる拡張も行われていたようだ。さらに、追い打ちをかけるように、米軍はこんなこともしていた。 〈上記の地形の変ぼうの際、行なわれたもののほか、その後において危害予防のため埋没、壕口の閉塞(爆破、ブルドーザー作業、手作業)により行なわれており、上記地形の変ぼうの影響をうけなかった残りの半数も相当数が完全に埋没、破壊されているものと推定される〉 「危害予防」とは、島に駐屯した米軍兵士の安全確保のことを指しているのだろうか。報告書を読む限り、これ以上の詳細は分からなかった。いずれにしても“空白の15年間”にこれほどまで地下壕が消失してしまった以上、遺骨収集の大幅な進展は望めないと調査団は判断したようだ。 報告書はこう強調している。〈復員者及びその他の者が、在島当時のことを基準として国民特に遺族に説明することは、大きな誤解をまねくこととなるので特に注意する必要がある〉。つまり、遺族らに遺骨返還の期待を持たせるなということだ。 〈今次調査によって約266個(中略)の入口を発見したが、今後いかに努力してもさらに100個を発見することは困難であろう〉と絶望的な記述も添えられていた。