K-1出場辞退でペナルティを課されても...小野寺力が貫く信念「日本発祥のキックボクシングをメジャーに」
ジムの代表であるアナン氏は日本でトレーナー経験もあるので、立嶋篤史もこのジムで練習したことがある。のちに〝魔裟斗二世〟として脚光を浴びたHIROYAもこのジムで練習しながら現地のインターナショナルスクールに通うことになるなど、日本のキックボクサーにとっては縁の深いジムだ。 2005年10月29日、小野寺は大田区総合体育館で初めての自主興行を開き、自身の引退試合をプロデュースした。対戦相手は「一番強いやつとやりたい」という希望通り、当時タイで一世を風靡していた強打者、アヌワット・ゲォサムリットとの一騎討ちに臨んだ。 それまでにアヌワットとの接点がなかったわけではない。小野寺がゲオサムリットジムで練習している頃、アヌワットもジムで練習していたというのだ。 「まだ本当に小さかったアヌワットも練習していましたね」 昔から「強い相手とやりたい」と願っていた小野寺はこのときからアヌワットとは運命の赤い糸でつながっていたのか。 ■NO KICK NO LIFE 結局、K-1フェザー級GPには小野寺の代役としてヤマノウチスグルという期待の新人選手が出場することになった。試合形式は4人制のワンデートーナメントだったが、出場選手の中では一番キャリアの浅いヤマノウチは初戦で姿を消した。優勝は初戦で優勝候補のひとりだった前田憲作を破ったシュートボクシングの村浜武洋だった。 その日、小野寺は自分が何をしていたのかまったく記憶がないという。 「何をしていたんだろう......。もちろん会場の東京ドームには行っていない。でも、結果は気になっていた記憶があります。優勝は村浜でしたよね」 もし小野寺が出場していれば、フェザー級では国内最大の大一番と言われていたvs村浜が実現していたかもしれない。 「あの頃、村浜とやるかもしれないという機運がありましたよね。他団体でも同じ階級の選手は常に意識していました。一番やりたいと心から思ったのは立嶋篤史さん。鈴木秀明君(小野寺と同時代に日本とタイを行き来しながらタイの強豪と渡り歩いたレジェンドのひとり)とはいつかやるだろうと思っていましたね」 小野寺vs立嶋、小野寺vs鈴木とも魅力的なカードだが、残念ながら拳を交える機会はないままに終わった。また、フェザー級GPに出なかったことで、小野寺は〝大のK-1嫌い〟と見られることもあったが、実際のところはちょっと違う。キックボクシングとは別の競技としてテレビ中継があるときには普通に観戦していた。 「面白いものだと思って観ていましたよ」 しかし、何度も言うようだが、自分がやるとなると話は違う。小野寺はK-1にキックが呑み込まれるような時代の流れに乗ることをよしとしなかった。さらに、すでに地上波放送もされていたK-1だからキックボクサーたちが群れるという流れにも違和感を抱いていた。