「マゾ説」に反発していた浅田次郎だったが……己を疑ってしまった"とあるマッサージ"の体験
私は、その間明らかに苦痛に倍する快楽を味わっていた
わが家のごく近所に突如として天然温泉が噴出し、巨大健康ランドが出現したという話は以前にも書いた。サウナ、プール、アスレチック等を完備し、きょうび流行のカラオケ付き宴会場などはなく、ひたすら健康管理を目的としたコンセプトは私の趣味に適(かな)う。むろんマッサージ師は名手が揃っている。 ただひとつ難を言えば、ここのマッサージ師は上手なのでいつも混雑しており、マッサージ師の指名ができない。したがって、より強力なマッサージを希望する私は、その日のお相手に一喜一憂する。 朝っぱらから出かけるのは初めてであった。おそらくマッサージ師にも早番とか遅番とかいうローテーションがあるだろうから、され朝っぱらにはどのような先生がいるのであろうと、私の胸はときめいた。 ひと風呂あびてから、いざマッサージ室へ。おちしも「浅田マゾ説」の風評に傷つき、徹夜で懊悩していた私の体は、大理石の彫像のごとくコッていた。 待ち受けていたマッサージ師と対面した私は、思わず「おお」と快哉の声を上げた。屈強な若者である。白衣に包まれた体はシスティナ礼拝堂の「最後の審判」にあるイエス・キリストの雄渾な体を想像させ、色黒の顔は東大寺三月堂の「金剛力士像」を彷彿とさせた。 一瞬、目が合った。男の表情は「揉みほぐさねば帰さじ」と気魄に満ちており、むろん私も、「揉みほぐさねば帰らじ」とばかりに睨みつけた。 マッサージ台にうつぶせたとたん、男は低い声で言った。 「特別コッているところは」 私はすかさず要望するツボを答えた。 「足の三里、腎兪(じんゆ)、および風門。強めにね」 背中をさすっていた男の手がフト止まった。 「……わかりました」 言うが早いか、男は私の背骨の両側をグイと圧(お)した。 それは私がかつて経験したことのない強さであった。 「強さは?」 「け、けっこう。それでいい」 「大丈夫ですか。すごくコッていますけど」 「大丈夫。ああっ!」 男の指は腰痛のツボである「腎兪」にピタリと決まった。腎兪を揉まれているのではなく、腎臓を握られたような気がした。 「痛くないですか?」 痛い。ものすごく痛い。痛すぎて「痛い」という言葉が声にならず、私はただ「ああっ」とか、「ううっ」とかいうア行五音を唸り続けただけであった。 痛い。だが気持ちいい。やめてくれという願いと、もっと続けて欲しいという欲望が相なかばし、私は底知れぬ快楽と苦痛にあえぎ続けた。 やがて男の両指は、ちかごろコリにコッている大臀筋のツボをブスリと捉えた。 「ここは?」 「そ、そこ。そこ」 「ちょっとガマンして下さいね。じきに楽になりますから」 「どうにでもして……あっ、ああっ!」 大臀筋と坐骨の周辺を念入りに揉みほぐしたのち、男の指は的確に足の三里、すなわち脛のツボを押さえた。 「強いですか?」 「いいっ、いいっ!」 この「いい」の意味は難しい。「もういい」と「気持ちいい」の二つが、ふしぎな同義語となって口から出たのであった。 「ほかには?」 「もう好きなようにしてっ!」 50分にわたって続いた苦痛が、性的な快楽を伴っていたとは思いたくない。だが私は。その間明らかに苦痛に倍する快楽を味わっていた。 男はツボを捉える前に、その位置を探すような手付きで肌をさする。それから一呼吸を置いて、正確にブスリとくる。その間合いがたまらなかった。思えば、苦痛を期待するその間合いは、苦痛そのものに倍する快楽であった。 マッサージが終わったあと、しばたく横座りになったまま動けなかった。無抵抗のまま苦痛を耐えた経験はかつてなかった。痛みを与えられたときには、常に倍返しの報復をしてきたはずであるのに、恨みどころかこの充実感はどうしたことであろう。やっぱり俺はマゾであったか、とおもった。 ところで、以後三日目にあたる今、鉄板を背負ったようなひどい張り返しに悩んでいる。遅ればせながらこの恨み、いかに晴らすべきか。 断じて言う。私はマゾではない。 (初出/週刊現代1998年8月8日号) 浅田次郎 1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。