進撃のBYD! 最近CMでおなじみも、創業者はどのような人物なのか? 逆境を超えた“電池王”に迫る
電動化への先見性
「電池王」となった王氏だったが、その野心はそれだけにとどまらなかった。2000年代初頭、王氏は自動車産業への参入を決意する。 その理由はEVの将来性を見据えてのことだった。自動車工業はある段階まで発展すれば必然的に電動化の方向に向かうと考えた。BYDは先進的な電池および制御技術を有していたため、EVを主要な方向性とし、自動車産業に参入することを決意したのだ。 しかし、自動車産業への参入は、当初から多くの批判や反対の声にさらされることになる。2002年7月に上場したBYDの株価は大きく下落し、時価総額は一時27億香港ドルも失われたという。 王伝福は多くの反対意見を押し切って西安秦川自動車工場を買収し、2003年に吉利汽車に次ぐ2番目の民営乗用車企業となった。2008年には、 「プラグインハイブリッド車(PHV)」 の量産を開始している。当時、EVはまだ一般的ではなく、インフラ整備も不十分だった。そのため、EVに特化したBYDの戦略を疑問視する声は多かった。それでも、王氏はEVの将来性を信じて疑わなかった。王氏は 「人類が今日まで発展してきたからには、消費のあり方に革命を起こすべきだ。われわれはエネルギー革命は必然だと考えている。今は百年に一度のチャンスなのだ。われわれは一気呵成(かせい)にこの電動化を最後まで推し進め、革新的な技術で人々の生活を改善し、人類のグリーンな夢を実現するつもりだ」 と語っている。つまり、当初から、現在のEVへの転換を確実に予見していたのである。 結果は徐々に明らかになってきた。世界的な金融危機の最中だった2008年当時にもBYDは確実に業績を伸ばし「株の神様」と呼ばれる投資家のウォーレン・バフェット氏から多額の投資も受けている。
グリーンな夢への挑戦
さらに、EV普及のために、王氏が積極的に働きかけたのが、都市の 「公共交通の電動化」 戦略であった。公共交通の電動化を推進し普及を図っていくという戦略である。これは当時の深セン市当局の政策ともマッチしていた。こうして、当局の奨励と支援の下、EVタクシーとバス(ほぼBYD製である)が従来のガソリン公共交通機関に徐々に取って代わり、深センの街を走るようになった。これは他の地域での新エネルギー車発展のための 「深センの経験」 を提供することになった。こうして、早くからEVへの転換、都市の電動化を予見した結果は明らかである。2023年の世界での販売台数は300万台を超え、2年連続で世界の新エネルギー車販売台数1位を獲得している。王伝福の目標は、BYDを世界のあらゆる分野の新エネルギー車のリーダーとすることだ。 王氏は、技術とイノベーションを何よりも重視していた。BYDの急速な成長は、この理念に基づく不断の努力の結果だといえる。実際、この20年で、研究開発チームは20~30人から 「2000倍以上」 に増えた。いま、深センにあるBYDの本社は東京ドーム約50個分の敷地を持つ。従業員の移動のためにモノレールも走る敷地内には、技術研究開発チームだけで9万人を超える人材が働いている。研究拠点の数も11に達する。このことは、いかにBYDが技術とイノベーションに根ざした会社であるかを示している。いまだ、 「中国 = 安かろう悪かろう」 を疑わない者は絶えないが、それは遠い過去の話だ。 BYDの創業から27年。王伝福氏の逆境を乗り越える挑戦は、まだ終わっていない。むしろ、世界のEV市場を席巻するために、新たなステージに突入したといえるだろう。王氏の「グリーンな夢」の実現に向けて、BYDの挑戦はこれからも続く。
川名美知太郎(EVライター)