進撃のBYD! 最近CMでおなじみも、創業者はどのような人物なのか? 逆境を超えた“電池王”に迫る
250万元で独立、20人からの挑戦
研究者としての道を歩み始めた王氏だったが、再び人生の岐路に立たされる。改革開放の流れのなかで1993年、研究所が深センに設立した比格電池有限公司の総経理に任命されたのだ。 それから2年後の1995年、王氏は研究所を辞めて独立することを決意する。電池業界の巨大な利益の可能性を見いだしたが、国有企業では十分に能力を発揮できないでいた。そこで、王氏は辞職して独立創業することを決意したのである。 しかし、この事業を立ち上げるには多額の資金が必要だった。王伝福は実業家のいとこである呂向陽のもとを訪れ、250万元の創業資金を借りたいと申し出た。呂は長年勤めていた中国人民銀行を辞めて起業し成功を収めていた(現在は投資会社を経営)。 最初、呂は同意しなかった。というのも当時、比格電池の総経理というのは安定していて将来性もある仕事だと考えられていたからだ。呂は王伝福がそれを放棄するのは残念だと考えており、また創業が成功するとは限らないとも思っていた。しかし最終的に、王伝福は呂の心を動かす理由を述べて説得に成功したのである。 1995年2月、王氏はBYD社を設立し、独立創業の第1歩を踏み出した。創業時のBYDの従業員はわずか20人ほどで、深センの工業団地の一角を借りて小さな工場を立ち上げた。製造したのは、当時需要が高まっていた携帯電話用のバッテリーであった。
独自生産ライン開発
当時、この市場においては日本メーカーが非常に強力だった。しかし、資金に乏しい王氏は、日本メーカーが使っているような製造設備を購入することができなかった。そこで、王氏は、独自の生産ラインを開発した。本来はフルオートの機械が用いられる工程を、半自動の人力生産ラインに分解し、各工程を数個の作業場に分け、熟練工と彼らが手にする数元の治具によって製造するというものだ。これは 「小米+歩兵銃」 方式と呼ばれた。「小米(人海戦術)」と「歩兵銃(安価な設備)」を組み合わせたものである。由来は、中国共産党が日本軍と国民党に対して戦った抗日戦争と解放戦争の時期、物資が非常に乏しい状況下で自給自足を続けながら、革命を成就した際の中国共産党のスローガンのひとつ「小米(アワ)を食べ、小銃を手に」に由来する。自給自足の生活をしながら武装闘争を続けるという意味だ。 この方式には以下のようなメリットがあった。 ・初期投資を大幅に抑えられる:高価な自動化設備を購入する必要がない。 ・柔軟性が高い:需要に応じて人員を調整できる。 ・品質管理がしやすい:各工程を細分化し、熟練工が担当することで、不良品の発生を抑えられる。 この方式は、当時の中国の労働集約型産業の特徴を巧みに活用したものであった。こうして、BYDは低コストで高品質の電池を大量生産することが可能となり、日本企業をはじめとする競合他社に対して大きな価格競争力を持つことができた。 その結果、1997年にはBYDは中国最大、そして世界第4位の電池メーカーにまで急成長を遂げた。さらに2003年には、日本の三洋電機を抜いて世界第2位の「電池王」の座に就いたのである。