スローガン「紡」に込めた思い 駒澤大学・篠原倖太朗主将「自分たちの代を起点に、2年連続三冠の土台を」
「2年連続三冠」を掲げて臨んだ2023年度は、出雲駅伝、全日本大学駅伝の二冠は達成したものの、箱根駅伝で準優勝だった駒澤大学。24年度、チームをまとめる主将には篠原倖太朗(4年、富里)が就任した。主将として、競技者として駒澤大学最後の1年で目指すものを聞いた。 【写真】笑顔の大八木弘明総監督から肩を抱かれる篠原倖太朗と佐藤圭汰
自分を全国区にしてくれた駒澤への恩を返したい
「駒澤大学にすごく恩があるので」。篠原は主将になった理由をこう表現した。 普段、大八木弘明総監督が率い、世界を目指していくトップレベルのSチームで練習している篠原。実は、大八木総監督からは「もっと海外での合宿の回数を増やして、世界に出ていくための土台を作ろう」との言葉をもらっていた。だが、そこに「1年待ってください」と返事をした。 「田澤(廉)さん、鈴木(芽吹、ともにトヨタ自動車)さんを追ってきたので、2人が経験してきたものを自分も、という思いもありました。僕は駒澤大学に対して、すごく恩があるので。まずこの1年は恩を返さないといけない、チームを支えたいという気持ちで主将をやろうと思いました」。学年内の話し合いで「自分が(主将を)やろうと思ってる」と言ったところ、同級生たちから「篠原しかいないでしょ!」と心強い声ももらった。 篠原が陸上を始めたのは、小学校の時だ。もともと柔道をやっていたが体が大きくなく、学内のマラソン大会では優勝できるぐらいの実力があったため、「陸上の方が向いているかも」と地域のクラブチームで陸上を始めた。中学校で陸上部に入り本格的に長距離に取り組み始め、富里高校に入学後は往復40kmの距離を自転車通学しつつ、陸上部の練習に向き合った。徐々に実力をつけていき、コロナ禍で中止になったインターハイの代替大会では1500mで3位の結果を残した。しかしけがなどの影響もあり、高校時代の5000mのベストタイムは14分36秒11にとどまった。 全国高校駅伝で活躍していたわけでもないし、持ちタイムもそこまで速くない。自分は決して全国区の選手ではない、という思いが入学時の篠原にはあった。しかしいつか世代を代表する、学生を代表する選手になりたいと思ってはいた。 「学内でも学外でも、同級生には負けたくない」という思いを強く持っていたが、同時に「誰よりも練習しないと勝てない」とも考えていた。まだ持ちタイムもない1年時から、「田澤さんと一緒に練習をさせてください!」と藤田敦史コーチや大八木監督(ともに当時)に直訴し、強度の高い練習を一緒にやらせてもらった。 一緒に練習をすることで、田澤の才能を目の当たりにするとともに、その才能におごらない真剣な取り組みにも身が引き締まる思いだった。「こういう人が上に行くんだろうな、と思いました」と刺激を受けつつ、1年生の6月には5000m13分53秒92の自己ベストをマーク。駅伝シーズンにはルーキーながら出雲駅伝の1区に抜擢(ばってき)されるなど、大八木監督からの期待も大きく、一気に実力を伸ばしていった。 2年時には全日本大学駅伝で5区区間2位、箱根駅伝で3区区間2位の好走でチームの優勝と三冠達成に貢献。1月の都道府県駅伝に出場後、2月の丸亀ハーフマラソンで1時間00分11秒をマークし、日本人学生記録を更新。ここが、個人的なターニングポイントとなった。「飛躍したな! という自覚がありました。1つ上の位置に行ったかなというきっかけになりました」 その言葉通り、1カ月後の日本学生ハーフマラソンで優勝し、FISUワールドユニバーシティゲームズ(以下、ユニバ)の代表に内定した。そして3年の4月の金栗記念では10000m27分43秒13を出し、27分台に突入。学生3大駅伝すべてに出走し、先輩の鈴木、後輩の佐藤圭汰(3年、洛南)とともにエースと呼ばれる存在にまで成長した。 「強くもない自分を受け入れてくれて、陸上部に入れてくれて、全国区にしてくれた。そういう意味ですごく恩があります」という篠原。もちろん強くなりたいとはずっと思っていたが、「ここまで順調に来られるとは思っていなかったです。自分が思い描いていたよりも1年早いです」と話す。