「私どもの不始末を…」キングメーカー・田中角栄元首相は深々と頭を下げた 行政改革が2010年以降、下火になった事情とは
▽キングメーカーの思いが影響及ぼす 行政改革は、国の機構を根本から変える大がかりな事業だ。実施に向け、とりわけ厚い壁となるのは、長年の歴史で培われた政財官の関係者の既得権。過去4回の行革のうち、まず第2次臨調は、どう突破したのか。 旧総務庁官僚で臨調事務局に出向経験のある元内閣審議官、江沢岸生氏=現長野県飯山市長=は、意外にも首相退任後もなおキングメーカーとして政界に君臨した田中氏の強い思いが影響したと明かす。 「田中元首相は既に行政の肥大化を懸念していた。『民間でできるものは民間に』というのが持論で、多額の公的資金が投入される一方でコストや競争に対する意識や、効率性の低さが指摘されていた特殊法人などはどうにかしなければという意識が強かった」。特殊法人は当時、行き詰まりを見せ始めていたという。 「低成長時代に入り、高度成長期に積極活用し社会資本整備を進めたことに、ある種の責任を感じていたのではないか」
経団連会長だった土光敏夫氏に白羽の矢を立てたのは、1981年の第2次臨調設置を主導した当時の中曽根康弘行政管理庁長官と鈴木善幸首相だ。1982年に退陣表明した鈴木氏の後継首相に中曽根氏を押し上げたのはほかならぬ田中氏で、政権発足後も陰に陽に中曽根氏を支え続けた。 ▽ぶれない意思が一定の成果につながる 徹底してやり抜く実行力から「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれていた田中氏。臨調は「増税なき財政再建」のスローガンの下、3公社民営化だけでなく財政圧迫の要因とされた「3K赤字」(米、国鉄、健康保険)の解消にも踏み込んだ。不要な特殊法人や事業廃止にも踏み込んで一定の成果につなげた。 江沢氏はその“勝因”をこう分析する。「政策立案に非常に強い思いを持っていた時の首相と、それを支える政治家ががっちりかみ合ったために抵抗勢力をはねのけて改革が進んだ。本当のトップの明確な意思がぶれなかったからだ」