「職工ラシキ生徒トナス」実学優先 大大阪が求めた多様な工業系学校の誕生
大大阪の経済を強くした理由のひとつとして、“一人前”となった職工の独立を支えた徒弟制度と、少ない元手による開業を可能にした問屋街などの集積をみていきました。 同様に忘れてならないのが、技術者を育てるための学校教育、実学教育の充実ぶりです。日本経済史、日本経営史が専門の南山大経営学部、沢井実教授が連載第3回では大大阪を支えた人材育成の仕組みと民間企業の開発技術向上を研究機関について取り上げます。 ----------
「大大阪」を支えたもの:工業教育と研究開発
「大大阪」時代の大阪経済を支えた人材、とくに技術者教育についてみてみよう。 この時代、多くの男子は尋常小学校、あるいは高等小学校を卒業してすぐに実業の世界に入り、二十歳の徴兵検査を受ける頃に一人前となるというのが一般的であった。尋常小学校を卒業して中学校ではなく実業学校(工業学校、商業学校、農業学校など)に行く途もあり、実業学校は5年制の甲種と3年制の乙種に分かれた。 また中学校を卒業して高等学校に進学し、さらに大学へと進む者もいたが、その数はきわめて限られていた。高等学校ではなく専門学校(高等工業学校、高等商業学校、高等農林学校など)に進む者もいた。さらに昼間働く者が夜間に学ぶことができる私立の工業各種学校も多数存在した。 大阪の高等工業教育を担ったのが大阪高等工業学校である。1896年に大阪工業学校が設立され、1901年に大阪高等工業学校と改称され、29年に大阪工業大学に昇格する(東京では東京工業大学が誕生)。31年に大阪帝国大学(医学部と理学部の2学部)が設立され、33年に大阪工業大学は大阪帝国大学工学部となった。さらに戦時期の1939年に新たに大阪高等工業学校(44年3月に大阪工業専門学校と改称)が設立された。
工業教育の学校が充実
一方、中等工業教育を担ったのが、大阪市立・府立の工業学校であった。表2にあるように大阪は全国有数の充実した中等工業教育を展開した地域であった。1908年開校の市立工業学校(後の大阪市立都島工業学校)と府立職工学校(後の大阪府立西野田職工学校)が嚆矢であり、その後、表2にあるように多くの市立・府立校が設立された。 都島は18年度から全国唯一の6年制の日本有数の大規模工業学校となった。一方、府立学校はあえて「職工学校」という校名を選択したが、西野田・今宮職工学校の校憲の第1条に「学校ラシキ学校トナスニアラスシテ工場ラシキ学校トナスニアリ」、第2条に「生徒ラシキ生徒トナスニアラスシテ職工ラシキ生徒トナスニアリ」を掲げ、全国でもっとも工場実習の時間の多い学校として著名であった。 さらに大阪では1895年に私塾製図夜学館、1902年に関西商工学校が設立され、戦間期には住友私立職工養成所(昼間課程、授業料無料、卒業後住友関係企業への就職義務はなかった)、大阪工業専修学校、関西工業専修学校(現大阪工業大学・摂南大学)、大阪鉄道学校(現大阪産業大学・付属中高校)などの工業各種学校が設立された。以上のようなさまざまな性格の学校が技術者の教育に大きく貢献したのである。