歌舞伎町で育つバンドシーン、新宿LOFT樋口寛子が奔走した25年間
東京の老舗ライブハウス・新宿LOFTが歌舞伎町移転25周年を迎えた。 西荻窪ロフト、荻窪ロフト、下北沢ロフトに続くライブハウスとして、西新宿に誕生した新宿LOFT。1976年、開店時のセレモニーには鈴木慶一、高橋幸宏、矢野顕子、遠藤賢司、大貫妙子など、そうそうたる面々が出演した。ニューミュージック全盛期を経て、新宿LOFTはパンクブームを牽引。インディーズシーンの確立を先導し、サザンオールスターズ、BOØWY、スピッツなど、さまざまなアーティストのホームグラウンドとされてきた。 【写真】移転25周年を迎えた新宿LOFTのメインフロア 1999年、新宿LOFTは歌舞伎町に移転。「東洋一の歓楽街」「眠らない街」という異名を持つこの街で、いったいどんなバンドが育まれてきたのか。音楽ナタリーでは、新宿LOFT勤続27年の樋口寛子にインタビュー。フジファブリック、メレンゲ、音速ラインらの若き日々を支えた彼女に、歌舞伎町で過ごした四半世紀を語ってもらった。 取材・文 / 安部孝晴 撮影 / オオハラシンイチ ■ ロックの中心地 ──樋口さんが新宿LOFTにたどり着くまでの経緯を教えてください。 学生のときは、マネジメントのお仕事をしたいなと思ってたんです。でもそういう募集は少なかったし、面接を受けても弾かれて。その頃、THE YELLOW MONKEYやスピッツがライブハウスで育ったという記事を読んで、私の中で初めて「ライブハウス」というワードがビビッときました。ライブハウスで働けば、将来のTHE YELLOW MONKEYや、将来のスピッツに出会えるかもしれない。そう思って下北沢SHELTERに電話をかけたんだけど、「今は募集してない」と言われて、同じグループの新宿LOFTでデスクワークをすることになりました。「きっかけをつかんだら辞めようかな」くらいのカジュアルな気持ちでしたね。 ──しかし今日まで27年間、この仕事を続けることに。 LOFTの歌舞伎町移転が大きな転機になりました。私が働き始めたとき(1997年)、LOFTは西新宿にあったんだけど、その2年後に移転して、会場面積が倍になって。せっかくだし、新しいライブハウスで働いてみようと思ったんです。そのタイミングで当時の社長(小林茂明)が「ブッキングをやってみないか」と提案してくれました。当時はパンクとビジュアル系がすごく元気な時代で、LOFTもその二刀流だった印象ですね。 ──移転前、歌舞伎町にどんな印象を持っていましたか? やっぱり怖かったですよ。移転の話を聞いたときは「え?」と思いました。歌舞伎町に毎日通うのかって。怖い人もいるだろうし、刺されたらどうしようとか、そういう気持ちしかなかったです。だから歌舞伎町で働くこと、家族には言えなかった。「新宿で働くよ」って言ってました。 ──ライブハウスの仕事は夜遅くなるからなおさらですよね。 事情は知らないけど、身投げとかもよくあって。LOFTで朝まで打ち上げをして、外に出てみたら花がいっぱい敷いてあるとか。最初はびっくりしたけど、不思議なもので、慣れてくるんですよね。 ──どうして移転先に歌舞伎町が選ばれたのでしょうか? 新宿という街に対する思い入れが、やっぱり強かったんだと思いますよ。平野悠(ロフトグループの創業者)はかつてロフトがあった西荻窪や荻窪のような“中央線文化圏”ではなく、当時、ロックの中心地となっていた新宿にライブハウスを出したいと考えて、LOFTをオープンさせたんです。「新宿LOFT」というワンワードの名前が定着してるから、やっぱり移転先も新宿じゃないとね。「吉祥寺LOFT」とかになっても、みんなピンとこないでしょうし。 ──たとえ苦しい状況になっても、そこは守り抜くという。 そうですね。東日本大震災とコロナ禍も乗り越えることができました。この2つは、今まで勤務してきた日々が全部吹き飛ばされるくらい衝撃的な出来事で。 ──震災があったとき、どこにいましたか? 私はLOFTで、バンドさんと打ち合わせをしてたんです。揺れがあまりにもひどくて、慌てて外に出たら、ほかのビルからも大勢出てきて。歌舞伎町には看板がたくさんあって危ないので、みんなで道路の真ん中に移動しました。電車も全部止まっちゃったから、夜中に歩いて帰ったなあ。 ──しばらくは営業できない日々が続きましたよね。 何日か家から出られず、その後も計画停電が続いて。アンプラグドライブに急遽変更することも多かったです。「電気を使わずにやればいいじゃん」という声もあったけど、とてもじゃないけどそういう気分になれない方もいらっしゃる。やっぱり衣食住を考えたときに、エンタテインメントは一番後回しになるんです。音楽は彩りとしてあったほうがいいんだけど、お腹は空くし、着るものは必要だし、やっぱり私自身も生活を優先する。私はそういうところで仕事をしてるんだなと痛感させられましたね。 ──さらにその10年後、コロナ禍で再び窮地に。 コロナは停電よりもっとヤバくて。営業しちゃダメって言われたら、これはもう本当に厳しいかもなと思いました。でも興行を打てなくなったときに、日頃いろいろアンテナを張っていたことが役に立って。市松模様のマスクを作ったり、オリジナルコーヒーを作ったり、新しいアイデアで勝負しました。乗り越える術を学べたという意味では、いい機会でしたね。 ■ 「意味があるよね」と肯定する場所 ──歌舞伎町という街にライブハウスがある意義を、どのように考えていますか? 歌舞伎町はいろんな世代、性別、ジャンルの人が集まりやすい街だから、LOFTもそこに変なこだわりを持ってないんですよ。いろんな音楽が集まってくるから、お客さんも多種多様に楽しめる。どこにも染まりたくない人は、歌舞伎町に来るといいかもしれませんね。下北沢とかは若い子の街になっているから、やっぱりはみ出しちゃう人もいる。 ──“下北系”と括られることもしばしばありますね。 あそこでは、どうしても年齢が限定されちゃうんですよね。30歳になったとき、20歳の子と混じって“下北系”を名乗れるのか?って思う。下北沢でサーキットフェスに出たり、ワンマンライブをやったり、ネクストステージを見据えたステップアップに利用するならいいんだけど、バンド同士で友達みたいに馴染んじゃったら、たぶん抜け出せないんですよ。“下北系”の系譜になっちゃうと、その界隈のお客さんしか支えてくれなくなるから。 ──歌舞伎町にはよくも悪くも、そういった系譜がない。 そう。最近のライブハウスは若いアーティストばかりに着目しがちだけど、40代や50代の方だって大勢ステージに立っていらっしゃる。2年後に設立50周年を迎えるLOFTは、そういう世代がやっていることに対して「意味があるよね」と肯定する場所であるべきだと思います。うちみたいな会場には、いろんな人が出たほうがいいんです。 ──新宿LOFTは幅広い年齢層の受け皿になっていると。 もちろん、新しいバンドだけ追いかけることだってできるんですよ。でも、そうじゃないよなって思う。SNSで話題になったバンドが、いいライブをするとは限らない。いざライブを観てみたら、やっぱりまだ説得力に欠けるというか。若さは素晴らしいけど、それだけじゃダメ。 ──ライブの説得力は、どういう部分から生まれると思いますか? なんだろうな。お客さんが3人でも、100人でも、同じように気持ちを込めてやることですかね。好きでやってるわけだから、ちゃんと気持ちを乗せてステージに立つことが大事。お客さんがいないことにふてくされるバンドもいるけど、本当に子供だなって思う。ふてくされたいのはこっち! 怒られるのは私なんだから(笑)。 ──のちに大きくなっていくバンドは、やっぱり若い頃から違う? そうですね。例えば志村くん(フジファブリックのギターボーカル・志村正彦)は、私と知り合ったとき22歳とかでしたけど、全然浮ついてない人でした。東京は水がまずいだとか、うどんがおいしくないだとか、ブーブー言ってはいましたけど、すごく真面目で。音にもこだわってたし、照明の当て方とか、そういう演出の部分にも一生懸命になるタイプでしたよ。どれだけカッコよく“フジファブリック”というものを見てもらえるか、俯瞰で判断していました。 ──志村さんは当時から、芯の通った活動をしていたんですね。 あと鮪くん(KANA-BOONのギターボーカル・谷口鮪)も、ブレなくてすごいなと思う。売れる前、夜行バスでうちに来ていた頃から、本当に音楽が大好きな青年で。いろんなジャンルの曲を聴くし、音楽だけじゃなくて映画だったり、小説だったり、マンガだったり、エンタテインメントそのものを楽しんでるイメージがある。私よりずっと年下だけど、尊敬しています。ほかにもスキマスイッチとか、マカロニえんぴつとか、LOFTに出てた人が紅白歌合戦やレコード大賞に出演する姿も見てきました。本当にいろんな経験をしたなと思いますよ。 ──樋口さんは25年間、歌舞伎町でアーティストの成長を見守り、そして見送ってきた。 はい。フジファブリックはメジャーデビューが決まったタイミングで、追い出し会をやったんです。そういうときに集まるのも、やっぱり歌舞伎町なんですよ。「モーモーパラダイス」でお肉を食べて、そのあとカラオケに行きました。志村くんはユニコーンの「自転車泥棒」とか歌ってたかな。メンバーに「がんばってね」って伝えて、彼らはそのあと「桜の季節」でデビュー。だからね、うれしかったし、ちょっと寂しいなあと思ったりもしたんです。 ■ 歌舞伎町を音楽の街に ──近年はバンドだけでなく、アイドルの出演も増えましたよね。 そう。もちろん最初はびっくりしたけど、今ではすごくありがたいなと思ってます。最初はLOFTにそこまで愛着がなかった子も、不思議なもので、だんだん馴染みの場所のようにしてくれて。アイドルはお客さんも含めてフットワークが軽いから、なかなか埋まらない日にやっぱり助けてくれるんです。うちはジャンルを固定しないので、アイドルもバンドも出るし、新人もベテランも出る。どっちが勝った、負けたという話ではなく、バランスよくブッキングしていきたいなと思いますね。 ──今をときめくMrs. GREEN APPLEも、新人だった頃、LOFTに出ていたとか。 彼らが10代のとき、「TEEN'S MUSIC CAMP」(新宿LOFTが主催する22歳以下限定イベント)に出てくれたんです。当時からやっぱりまとまってるなという印象でしたよ。まだライブハウスでやり慣れてない時期だったと思うけど、すごくしっかりしてました。そしたら今やもう世界で戦うバンドになっちゃって、あのとき、とんでもない瞬間に立ち会ってたんだなって。そういう面白さが、やっぱりライブハウスにはあると思います。 ──最初におっしゃっていた「将来のTHE YELLOW MONKEY」や「将来のスピッツ」に出会えているということですよね。 「ライブハウスが一番楽しいんだ!」という美談にするつもりは全然ないけど、いろんなエンタテインメントがある中の1つとして、ライブハウスも認められてほしい。0が1になる瞬間を目撃して、100になったところをテレビで見かけると、すごく誇らしい気持ちになります。会場が大きかろうが小さかろうが、私には関係なくて。ライブハウスが小さくて後ろめたいなんて気持ちは1mmもないです。負けないぞっていう気持ちでやってます。 ──この先、歌舞伎町でどんなことを実現していきたいですか? ライブハウスを盛り上げるために、1本1本のライブと丁寧に向き合っていくのはもちろん、2026年にはLOFTが設立50周年を迎えるので、周年イベントに向けた準備も進めていきます。あとは私、お芝居を観るのが好きなので、劇場で興行を打ちたいなという気持ちがあって。歌舞伎町劇場やミラノ座のような、雰囲気がよくて、いろんな世代に楽しんでもらえる場所で、着席スタイルの音楽イベントをやってみたいです。 ──LOFTを起点として、街全体に音楽を広めていく。 はい。歌舞伎町にはいろんな年齢層の方がいらっしゃるから、座って楽しめる音楽があってもいいんじゃないかなと。オールスタンディングのイベントはLOFTでやって、ほかの会場では着席イベントをやれたらと企んでますね。歌舞伎町から音を絶やさず、音楽の街にしていきたいなと思っています。 ■ プロフィール 樋口寛子(ヒグチヒロコ) 東京都出身。1997年より新宿LOFTを中心にブッキング / ライブ制作を担当。フジファブリック、メレンゲ、音速ラインらの若き日々を支えてきた。