「恋多き女」和泉式部が死を覚悟しながら、歌を贈った相手とは?...英語で読む『百人一首』
<英語で読めば、『百人一首』の理解がもっと深まる...。『百人一首』の翻訳者として知られる、ピーター・J・マクミラン氏が百首の謎を一つ一つ解き明かす>
男性が女性のふりをして和歌を詠んだのはなぜか? 主語のない歌をどう解釈するのか? 【画像】和泉式部 『百人一首』の翻訳者として知られる、ピーター・J・マクミラン氏が『百人一首』の百首の謎を一つ一つ解き明かしていく...。話題書『謎とき百人一首──和歌から見える日本文化のふしぎ』(新潮社)より「56 和泉式部」の章を抜粋。 ■あらざらんこの世の外(ほか)の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな As I will soon be gone, let me take one last memory of this world with me── may I see you once more, may I see you now? 【現代語訳】私は死んでこの世を去っていくでしょう。あの世への思い出として、もう一度あなたに逢うことが叶えばいいなあ。 この歌の出典である『後拾遺集』の詞書によれば、病床から恋の相手に贈った歌で、死を覚悟しながらも、その前にもう一度恋人に逢いたいという痛切な願いが詠まれた歌である。 作者の和泉式部が恋多き女性として知られていたこともあり、この歌を贈った相手を藤原保昌(やすまさ)や橘道貞(みちさだ)とする説があるものの、実際のところは不明だ。 「あらざらん」は、自らが死んでこの世に存在しなくなるであろうという意で、二句目の「この世」にかかっている。 「この世の外」は死後の世界、来世のことで、「もがな」は願望の終助詞である。この初句で表現される切迫した死の瞬間は、修辞的な誇張表現かもしれないが、哀愁を漂わせ、この歌を強く印象づけるものとしている。 和泉式部は優れた歌人でもあり、個性的な歌を数多く詠んでいる。いくつか紹介してみたい。 ■刈藻(かるも)かき臥(ふす)猪(ゐ)の床のゐを安みさこそねざらめかからずもがな(『後拾遺集』) 【現代語訳】枯れ草をかぶって床に伏し、安らかに眠る猪(いのしし)ほどは熟睡できないとしても、ここまで眠れないということがなければ良いのになあ 実に美しく独創的な歌だ。この歌は、自身が眠れないということと、枯れ草で寝床を作り、よく眠るとされた猪とを対比している。身分のある女性が自分と野生の猪とを比べるのはとても斬新だ。 ■黒髪のみだれも知らず打臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき(『後拾遺集』) 【現代語訳】黒髪が乱れるのもかまわずに横になると、私のこの髪をまずかきやってくれたあの人のことが恋しく思われる この歌は単に男性を恋い慕う歌ではなく、初めて床を共にした男性が髪をかきやってくれた感触をまたもう一度と、再会を願うものだ。 具体的な経験を取り入れた言葉に生々しいリアリティーを感じる。無邪気さと艶っぽさとの組み合わせによって、時代を超えた力をもつ歌になっている。 ■のどかなる折こそなけれ花を思ふ心のうちに風はふかねど(『続後拾遺集』) 【現代語訳】花を思う心は、落ち着く時がない。心の中は、現実の桜の花と違って風が吹くことはないのに これは平安時代の和歌の古典的な詠み方で、第33番の紀友則の歌に非常に近い。しかしこの歌はさらにひとひねりして、心の中に吹く風にまで触れているのが趣深い。 ほんの数首を見るだけでも、和泉式部がとても独創的で、深い感情を美しく表現した歌を多く詠んだことがわかる。 紹介した歌はいずれも、『百人一首』の歌よりもさらに素晴らしいとさえ感じた。どの歌も詩的で、現代に通じる魅力があり、和泉式部という歌人の非凡さを感じさせてくれる。
ピーター・J・マクミラン (翻訳家・日本文学研究者)