敵機撃墜だけでなく意外な活躍もした優秀高射砲【88式7cm野戦高射砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 第1次世界大戦では、航空機が急速に発達してその脅威が著しく拡大した。そこで地上部隊には対抗手段が必要となったが、そのひとつが高射砲だった。 高射砲の概念をごく簡単に説明すると、高速で空を飛ぶ航空機を撃つため、弾道の低伸性(真っ直ぐに飛ぶこと)が良好な高初速(砲弾のスピードが速い)の砲のことで、撃ち出される対空砲弾は事前に敵機が飛んでいる高度で爆発するように調整され、弾片をまき散らして敵機に損害を与えたり撃墜する。 そして実は高初速であることは、水平射撃で徹甲弾を撃てば敵戦車も撃破できるだけでなく、榴弾を撃てば野砲のように使えるため、見方によっては「万能砲」ともいえる。ただし高射砲として航空機を撃つための高射照準器機が複雑高価なため、「数を揃える」にはコストがかかる。 また、国によっては比較的容易に移動可能は野戦高射砲と、移動も可能だが原則は陣地に配置して運用する固定高射砲に区分しており、日本陸軍はこの傾向にあった。 さて、第1次世界大戦終結後も、航空機は著しいスピードで発達を続けた。ゆえに高射砲も、性能向上著しい「敵」に合わせた性能向上が不可欠であった。このような流れのなかで、日本陸軍は1928年に88式7cm野戦高射砲を完成させた。「野戦」の名称が与えられているように、機動性に優れてているのが特徴である。また、制式名称は「7cm」とされているが、実際の口径は75mm、つまり7.5cmであった。 この7.5cmという口径は、高射砲としては太平洋戦争時には威力の点で劣弱化しつつあったが、機動性に優れていたので日本陸軍の主力高射砲のひとつとして重宝された。牽引には96式高射砲牽引車や94式6輪自動貨車などが用いられ、操砲要員の定数は1門に付き12名だが、緊急時には半分以下の4~5名でも射撃可能だったという。 88式7cm野戦高射砲は機動性が高いため外地に送られることが多く、太平洋島嶼部(とうしょぶ)の戦いでは、中~低高度域を飛来する双発爆撃機などを相手に善戦。地上戦においても、野砲代わりに榴弾射撃を行ったり、徹甲弾を使ってM4シャーマン中戦車をかなり撃破するなど「野戦高射砲の万能ぶり」を発揮した。 また日本本土の防空戦では、高高度飛行のボーイングB-29スーパーフォートレスへの対抗は困難だったものの、アメリカ側の戦術の変更による夜間低高度焼夷弾爆撃に対しては、有効な反撃を加えることができた。 88式7cm野戦高射砲の生産総数は約2000門と伝えられ、もし相応の数量の牽引車が配備され、その燃料や砲弾が確実に供給できていれば、特に外地での戦いでは対戦車砲や野砲の不足を補う、あるいは代行できる「便利な高射砲」としてさらに活躍したかも知れない。しかし当時の日本の国力では、残念ながらこれは無理な話であった。
白石 光