「彼は自分を持っているブレない人間」。野村祐輔の原点・広陵高時代の恩師、中井哲之監督が語る惜別の思い
今シーズン限りで13年間の現役生活にピリオドを打ったカープ・野村祐輔。原点とも言えるのが、その名が全国に広がった広陵高時代だ。ここでは、引退にあたり相談したという恩師・中井哲之監督が語る、教え子・野村への思いを紹介する。 【写真】広陵高時代、野村祐輔の1学年下でプレーした上本崇司 ◆秋季大会中に本人から連絡。「やっぱり来たか……」 (野村)祐輔から連絡があったのは、秋季広島県高校野球大会の最中でした。「先生、私事で大変申し訳ないんですが……」と。大事な内容ですし、私はすぐに「家に来い」と本人に言って、自宅で食事をしながら話をしました。やはり決断にあたり、本人にも葛藤があったようです。 毎年この時期、教え子から電話が来るとドキッとします。やはり、プロ野球という夢の世界で1日でも1年でも長くやってほしいですから。そういう意味では祐輔は成功者です。当然『少しでも長く』という思いが、彼の本心だったと思います。『もう少しできるんじゃないんか』『先発でなくても中継ぎでもいけるのでは』など、いろんな考え方、思いがある中で引退を決意したのだと思います。 特にここ数年は暑い中、二軍でベテランでありながら、若い選手たちに負けないように、体と心の準備をしながらずっと取り組んでいると伝え聞いていました。そんな中、気持ちが切れなかったらいいな……と思っていました。8月には一軍で2試合先発し『頑張れよ』という思いで見ていました。なので、彼から話があったときは、『やっぱり来たか』という思いでした。もちろん、始まりがあれば、終わりがあります。最終的には自分自身で決断したのでしょう。 最後に引退試合をしていただけることになり「チケットを準備するので、試合を見に来てください」と祐輔から言われました。引退試合をしていただける選手はプロ野球界でもわずかですし、そういう選手に彼がなれたということが、努力と実績と人柄だと思います。最後に祐輔の先発を公言された新井貴浩監督にも感謝ですし、こんなに幸せなことはないと思います。 一番印象に残っているのは、やはり2007年の甲子園決勝戦でのマウンドでの顔です。あの顔は、いろんなことを子どもながらに考えている顔でした。あの時、選手に伝えたことは『2番(準優勝)だったから良かったという人生にしていくしかない』ということでした。頂点を取ってしまうと勘違いしてしまうかもしれません。『僕は準優勝。もう少しあの時、こう頑張っていたら、こうなっていたんじゃないか』と。ミーティングで話したことを覚えています。