<映像作家・佐々木昭一郎さんがのこしたもの>はらだたけひで…奇跡のような一筋の光【寄稿】
佐々木さんの作品は音楽と音を核にして、彼がいつまでも生々しい傷として抱えていた少年期の記憶──太平洋戦争、父母との思い出、疎開の体験など、その怒り、悲しみ、慟哭(どうこく)や歓喜、彼の心身に堆積した感情がいつしか稀有(けう)な作品へと化していった。
昔、佐々木さんが語っていたことだが、彼はたくさんの色のクレヨンを与えられると、思うがままに紙に色を塗り重ねてゆくうちに、真っ黒になって、終(しま)いには紙に穴をあけてしまうという。今、わたしたちが観ることの出来る彼の作品は、この真っ黒になった彼の記憶、渦巻く感情の混沌(こんとん)、抑圧された嵐から奇跡のように誕生した一筋の光にほかならない。その光は純粋で無垢(むく)であり、この世ならぬ透明さ、美しさと哀しさを帯びている。
亡くなる前に佐々木さんは、近頃、自分の何十年も前の作品が外国で評価されているようだが、なぜだろうといっていた。わたしは思わず「今の時代は詩が乏しいからではないか。佐々木さんはひとコマの映像に永遠、詩を求めている」といってしまった。そこで話は大谷のホームランの話へ移った。しかし彼は話を変えたわけではない。アマチュア野球の選手だった彼は、詩の有り様と大谷のホームランの映像が重なったのだ。
撮影中は、撮影の吉田秀夫氏や葛城哲郎氏、音響の岩崎進氏、そして製作の遠藤利男氏、限られたスタッフ以外の者が現場に近づくと火傷(やけど)を負う。製作に入れば、柔和だった彼は豹変(ひょうへん)し、己を中心に宇宙嵐を巻き起こす。創造行為とはそういうものだ。
作品について常日頃語っていたこと。「物語にはある抽象性が必要だ、観客が観(み)ながら自分の頭で感じて考えなければ、物語は深まってはいかない」。今日の分かり易さを求める映像作品の趨勢(すうせい)とは正反対の考えである。抽象性とは、おそらく詩を生む「曖昧さ」であり、「倍音」を生むさまざまな元素の集合体、表現や感動の苗床である。