政治家・石破茂を形づくった「二人の父」 「保守リベラル」路線いかにして築かれたか
今、鳥取駅近くの郵便局前には、郷土の英雄として二朗氏の銅像が、街を見下ろすように立っている。地元の人に二朗氏について聞くと、「厳しいけれど、心根は優しい人だった。鳥取のために尽くしてくれた」と声をそろえる。 通常、政治家の家庭に生まれた子どもは父親の権力に対し反発することが多い。だが、石破氏は、父親が功なり名を遂げ高齢になってからの待望の長男。石破氏にとって父は母の愛を争奪する相手ではなく、知事というその地域の最高権力者で、その存在を極めて素直に受け止め、ストレートに感化された。そこに、政治家として育つ石破茂の第一歩があったと倉重さんは見る。 「石破氏が父から学んだものの一つは『権力とは何か』です。権力者には特権もあるが、その代償もあり、批判される義務や責務が伴う。そうした権力が持つ二つの側面を、石破さんは幼少から自然に学んでいった感じがします」 父・二朗氏は家で仕事の話は一切しなかった。だが石破氏はその背中を見て育つ。 石破氏の秘書を90年代の約15年間務めた鳥取県議の福田俊史(しゅんじ)氏(54)は、石破氏は常に「俺は父を超えることができない」と口にしていたと言う。 「石破さんは、二朗さんもなれなかった内閣総理大臣にまでたどり着きました。しかし、立場だけではなく、いろいろな意味で父を超えることはできないと思っているようです」 決して謙遜ではない。「父を超えられない」という劣等感が、今の石破氏を成り立たせていったのかもしれない。社会学者の清水幾太郎や哲学者の田中美知太郎を読むことを勧め、社会派作家と言われた石川達三を読めと言ったのも父だった。 ■回顧録から辿った足跡「政治家のベース築く」 1981年、二朗氏が73歳で他界すると、石破氏は膨大な回顧録の中から父の足跡を辿った。父がいかに昭和天皇を崇敬し、一方でナチズムを嫌悪し軍閥に違和感を持っていたか。貧困を憎み、その解消に努力したか。その延長線上で社会主義や共産主義、リベラリズムに関心を抱いていたかを知る。 「生前の薫陶、死後の父探しを通じ、石破さんは政治家としての自己形成を遂げていきます。石破さんが到達した『保守リベラル』の路線は、父の思想と歩みをベースに築き上げたものといえます」(倉重さん)