【私の視点】 シリア:アラウィー派めぐるアサド父子の葛藤
伊藤 芳明
初めての街を訪れたら、まずは下町とおぼしき辺りを歩き回り、カフェでビールを飲みながら往来を眺めることにしている。ビールの価格、店員の応対、道行く人の服装や表情で、街の雰囲気が感じ取れるように思うからだ。 シリアの首都ダマスカスは、しっとりした古都の趣がある街だ。しかし人々の表情には他のアラブ諸国にある朗らかさが見られないように感じられた。応対してくれるウエイターにも笑顔がなかった。1980年代後半、ハフェズ・アサド(父)大統領の時代のことである。 内戦が続くシリアで2024年12月8日、親子2代、半世紀以上続いたアサド家による独裁体制が崩壊した。反体制派が大規模攻勢に出てから、わずか12日で首都が陥落。2代目のバシャール・アサド大統領(59)はロシアに逃れ、驚くほどあっけない幕切れだった。 確かにアサド政権の後ろ盾のロシアは、ウクライナに兵力も武器も注ぎ込み、シリアに割く余力がなくなっていた。レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラも、9月以降のイスラエル軍の攻勢を受け、シリアに戦闘員を送り込めなくなった。イランもイスラエルとの対立で、シリア支援どころではない状態だった。しかしアサド王朝瓦解(がかい)のあっけなさは、外部からの支援が弱まったことだけで説明がつくのだろうか? シリアは日本の半分ほどの面積に多様な民族、宗教が入り組んだモザイク国家だ。圧倒的多数を占めるイスラム教スンニ派のほかに、シーア派の一派で異端とされるアラウィー派も人口の1割ほどを占める。第1次大戦後にフランスは、アラウィ―派の若者を軍や警察に意図的に登用し、多数派のスンニ派を抑え込む道具として委任統治に利用した。 1946年の独立後はスンニ派の名家による多数派支配が続き、官界、経済界から締め出されたアラウィ―派の若者たちは、実力主義の軍を目指した。貧しい山村に育った父アサド氏もそんな若者の1人で、彼は軍におけるアラウィ―派の影響力確立に努め、1970年に無血クーデターで政権を奪取した。 翌年、大統領に就いた父アサド氏はアラウィ―派を積極的に登用。強固な地縁関係で結ばれたアラウィ―派主導の軍と諜報機関を作り上げ、徹底した「監視」と「密告」で冷酷な独裁支配を続けた。私が訪れていたのはまさにこの恐怖政治の渦中だった。 在英NGOのシリア人権監視団は、「死の刑務所」と恐れられたダマスカス近郊セドナヤ刑務所など、アサド政権下の刑務所での拷問によって少なくとも6万人が死亡したと推定している。 2000年に父の死去によって大統領に就いた息子アサド氏は、スンニ派イスラム教徒やキリスト教徒を重要ポストに採用してアラウィ―色を薄め、集団指導体制への移行を図ろうとした。しかし国民に染みついた「アサド王朝=アラウィ―派支配」のイメージ払拭は困難で、シリア社会に鬱積(うっせき)した恐怖政治に対する不満や怒りが一気に噴出し、雪崩を打った瓦解につながったといえる。 恐怖支配の反動としてアラウィ―派への「報復」が現実化している。政権崩壊から10日も経たずして、SNS上には旧政権の協力者を処刑したとする動画が現れた。 今のシリアに、アサド王朝の残党狩りでガス抜きを図っている時間はない。法に照らして犯罪に関わった者を裁き、アラウィ―派との相剋を克服することで、国家運営のノウハウを身に付けている彼らを国造りに取り込む道を探ることこそ、喫緊の課題に思える。
【Profile】
伊藤 芳明 ジャーナリスト。1950年東京生まれ。1974年、毎日新聞入社。カイロ、ジュネーブ、ワシントンの特派員、外信部長、編集局長、主筆などを務め2017年退社。2014年~17年、公益社団法人「日本記者クラブ」理事長。著書に「ボスニアで起きたこと」(岩波書店)「ONE TEAMの軌跡」(講談社)など。