艇体はベニヤ張り、先端に爆薬250キロ。海の特攻兵器「震洋」を平和継ぐ語り部に。家族にも触れさせなかった祖父の遺品は、かつて基地があった南の島へ託された
鹿児島県瀬戸内町埋蔵文化財センターに、太平洋戦争末期、旧日本海軍が投入した水上特攻兵器「震洋」の10分の1模型が寄贈された。1944(昭和19)年11月、同町内に初の震洋隊が配備されて80年。同センターは「町にこれまで持ち運びできる震洋の模型はなかった。子どもたちの平和学習などに大いに活用させてもらいたい」と喜んでいる。 【写真】〈関連〉寄贈した震洋の10分の1模型を持つ海田悟史さん=瀬戸内町埋蔵文化財センター(海田さん提供)
寄贈したのは、姶良市の県職員、海田悟史さん(30)。模型は、2021年に92歳で亡くなった祖父・藤山益夫さんの都城市山田町の自宅書斎にあった。指揮官が使用した5型で、本物同様のベニヤ製の艇体に、エンジンなど細部も正確に再現されている。 海田さんによると、藤山さんは太平洋戦争中の1944年、鹿児島海軍航空隊で甲種飛行予科練習生(予科練)を卒業。福岡・玄海基地を経て、岡山・倉敷で終戦を迎えた。1年余の短い軍歴中、震洋に接点を持つ機会があったとみられる。模型を制作者から託され、家族にも決して触れさせないほど大切にしていた。 藤山さんの死後、祖母の善子さん(91)から遺品整理を任された海田さんは、模型の精巧な造りに驚き、有効に活用してくれる贈呈先として、三つの震洋隊が進出していた瀬戸内町を選んだ。海田さんは「本物と同じベニヤで作られた艇体に実際に触れてもらうことで、戦争の狂気や悲惨さを知ってもらえれば、祖父も満足だと思う」と話した。
◇震洋とは 海軍の水上特攻艇。ベニヤ張りで先端に爆薬250キロを積み、自動車のエンジン2基で最大速度40キロを出せた。敵上陸部隊を水際で食い止めるため、体当たり攻撃するのが目的で、1944年8月、正式兵器に採用された。終戦時には113隊、配備艇は約6200隻に達した。1型(1人乗り)、5型(2人乗り)の2種あり、5型は全長6.5メートル、幅1.86メートル、高さ0.9メートル。
南日本新聞 | 鹿児島
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