ラジオ復帰15年 吼えるコンちゃん近藤光史アナの生き方
ラジオ復帰15年 吼えるコンちゃん近藤光史アナの生き方 THEPAGE大阪
コンちゃん、近藤光史です──。「コンちゃん」の愛称で親しまれ、歯に衣着せぬ発言などで人気の近藤光史アナウンサー(68)。かつてはMBS毎日放送のアナウンサーとして「ヤングタウン」や「ヤングおー!おー!」といった人気番組に出演、同局アナウンサーが全員出演した「あどりぶランド」も企画・出演するなど活躍した。1992年同局退職後にはタヒチへ移住し日本人向けの海外挙式会社を立ち上げたが、営業のため帰国していた2000年に同期や仲間に頼まれ、昼のラジオワイド番組を引き受け今年で放送15周年を迎えた。そんなコンちゃんを放送終了後に直撃し、生き方や家族への思いなどを聞き横顔に迫ってみた。
タヒチへ移住し政府公認の海外挙式会社設立
「大阪万博の翌年に(同局へ)入って45歳の1992年にタヒチへ行きました。そこで8年すごし、2000年10月2日にラジオをはじめました」とおなじみの迫力のある声で語り始めたコンちゃん。かねてから「タヒチに住みたい」という思いがあり「住ませて頂くなら行って役に立つ仕事はないかな」と考えた時、思いついたのが海外挙式会社だった。 「当時、日本人の海外結婚式が流行っていて、ハワイではその頃7000組が結婚式を挙げていた。そのうちの最低でも500組はタヒチにひっぱるからとタヒチ政府に申請して認められたんです」。同局アナ時代に結婚式の司会を2000件担当し、結婚式の裏表はよく知っている。自分の知ってる仕事ならやってもいいだろうと思ったことから、その思いを込めて出した申請が認められたわけだ。 その後は順調に挙式が行われていたが、1996年にフランスがタヒチ近海で核実験を実施。風評被害を受け日本からの海外旅行者が激減し、会社も大打撃を受けた。しかし、そうしたことにもめげず、タヒチ1997年にはニューカレドニアにも同業種の会社を立ち上げるなど精力的に活動を続けていた。
運命の日本出張。ドタバタの2か月半で帰国へ
積極的に各地で営業を行い、2000年夏には久々に日本へ帰国し仕事を行っていた。「僕は7月12日が誕生日なんですけど、それに合わせて帰国してたんです」。すると、宿泊していた大阪市内のホテルに1本の電話がかかってきた。その相手は同局時代の同期である平松邦夫アナウンサー。「せっかく帰国してんねやったら一度会おう」という話になり、久々に同局を訪ねた。 「1階の喫茶店で平松アナと話して『日本食はうまいで』といった話を聞いてたら20分くらいで『用事があるから』と去っていったんです」。すると、ほぼ入れ替わりに同期の野村啓司アナが喫茶に来て、同じように「日本はええで」という話をしだした。 そして、後に先輩にあたる斎藤努アナも来た。「斎藤さんには、先の2人と違う話をしてと言うたんですが『もう聞いてるかー』と言うて、結局はまた同じ話をして。そしたら、その後に当時のラジオセンター長をやってた田中文夫さんが来たんです」と当時を振り返るコンちゃん。入れ替わり立ち代わり同期や先輩が来て、最後は田中さんの登場。その田中さんは開口一番「ラジオの昼間の時間帯が悪い。(コンちゃんは)今までいろんなことを経験してきた。この時間をなんとかしてくれへんか」と話してきた。 この言葉にコンちゃんは「社員が26人いるので、それに対する責任もあるから。一応前向きお引受しましょうと返事はするけどいろいろ考えるわ」と言って別れた。「この話をもらって日本の友達らに相談すると、みんな『帰ってこいよ』というわけですよ。その時は来春をめどに考えてました」 だが、その予定では通らなかった。前向きに検討したという答えに同局からは「9月から宣伝したいんでお願いします」という連絡が。「7月中旬に話をもうて10月からラジオ頼むわというのは大変すぎた。けど、2つの会社ともに社長を任せられる人がいたのでお願いして、残務整理などをして8月23日には日本に来ましたね」とあわただしくしていた帰国時の様子を苦笑しながら振り返った。