浦和中学・浦和高校サッカー部創部100周年記念祝賀会が開催 OBや関係者約330人が出席
浦和中学・浦和高校サッカー部創部100周年記念祝賀会が11月19日、さいたま市内のホテルにOBや関係者ら約330人が出席して盛大に開催された。 高校23期の関根弘之サッカー部OB会会長(代読)や同校同窓会の野辺博会長らのあいさつに続き、埼玉県サッカー協会の鈴木茂会長らが来賓として祝辞を述べた。 かつての埼玉は浦和、浦和西、浦和市立(現さいたま市立浦和)、浦和南の強豪4校が好敵手として長らく覇権を争っていた。浦和市立が4度目の全国高校選手権を制した当時のMFだった倉又泰弘OB会会長は、「先輩たちは昔から浦高へのリスペクトがすごかった。浦高に学べ、浦高に追い付けという精神で切磋琢磨してきました。浦高万歳」と3校を代表してお祝いの言葉を贈った。 OB会副会長の松村道彦サッカー部元監督(高校27期)が乾杯の音頭を取り、旧交を温める歓談が始まった。 40年に浦和中学が第22回全国中等学校蹴球大会関東予選決勝で、埼玉師範学校を破って初の全国大会出場を果たした。学制改革により名称が変わった第27回大会に菅野さんのチームが参陣すると、ここから浦和高校に黄金期が到来。第30回大会の初優勝を皮切りに33、34回大会と3度の高校日本一に輝く。そうして浦和西、浦和市立、浦和南が続き、全国高校選手権は“浦和勢”だけで11度も優勝したのだ。 30回大会で頂点に立った陣容は国民体育大会、関東大会、全国高校選手権を制し、史上初の3冠を獲得したほか、年間52連勝の偉業を達成した伝説のチームでもある。 浅見俊雄、倉持守三郎(ともに高校4期)、藤井泰光(同7期)の3氏は、70~80年代に国際審判員として各国で笛を吹いた。浅見氏はJリーグ審判委員長や初代国立科学スポーツセンター長などを歴任。 高校13期の犬飼基昭さんは、Jリーグ浦和レッズの社長や日本サッカー協会第11代会長という要職に就き、村井満さん(同30期)もJリーグ第5代チェアマンを務めるなど、サッカー部OBの出世栄達は枚挙にいとまがない。J3FC今治の渡辺隆正コーチ(同48期)は、浦和に在籍した元Jリーガーだ。 1943年(昭和18年)4月入学組の高校1期生として、ただひとり出席した92歳の菅野一郎さんは、浦和本太小2年でサッカーを始めた。「あの頃は野球の時代だったけど、私はキャッチボールなんかやったことがないんですよ。みんなボールを蹴っていました。というのも本太小には、埼玉師範学校でサッカー選手だった先生が3人もいたからです」と貴重な逸話を披露した。 戦時下の物資不足とあり、ボールも靴もユニホームも先輩のお古を譲り受け、使い古しのボールを何度も縫って使ったそうだ。 左ウイングで主将だった菅野さんは3年間で浦和市立、湘南、小田原、上野北にしか負けていない。「上野北戦は悪天候で寒さに震えたのを覚えています」と75年も前の試合を懐かしそうに回顧した。上野北(三重)とは第27回全国高校蹴球選手権準々決勝で対戦している。