【ラグリパWest】癒えぬ悲しみ。天理大学ラグビー部
ある日、突然、若いラグビー仲間が何も告げずにいなくなる。残されたものにとって、悲しみや悔やみは計り知れない。 天理は同志社とともに西日本で2校のみの大学選手権優勝校である。その漆黒ジャージーが晴れることのない思いを抱え、この2024年のシーズンに臨む。 上野颯汰が自裁した。 愛称「そうた」は、生きていれば4年生CTBとしてチームの中核を担っている。 上野は今年1月2日、大学選手権の準決勝に先発した。帝京には12-22で敗れたが、最後まで国立競技場の緑芝に立ち続けた。 翌日から10日ほどのオフになった。上野は岐阜の実家で過ごした。奈良にあるラグビー部寮には再び戻らなかった。実家近くの川に入水した。遺書らしきものはない。監督の小松節夫は視線を落とした。 「ご両親とも色々と話したし、LINEなんかも昔にさかのぼってチェックしてくださった。でも理由を断定するまでには至らなかった」 告別式は1月20日。小松節夫は告白する。 「あんなに泣いたことはない」 なぜ旅立ったのか…。21歳の教え子を深くわかってやれなかった。小松の大きな悔恨(かいこん)が号泣に形を変える。 還暦をひとつ超した小松のその顔には、しわは多くなり、より深く刻まれる。 「俺の責任。信頼できるいい選手だった」 8か月ほどが過ぎた今でも、すべてを抱え込んでいる。小松は1993年に天理のコーチについた。指導者として今年32年目に入った。こんな別れ方は初めてだった。 小松は上野との記憶を呼び起こす。 「自信がない、メンバーから外して下さい、と言いに来たことがあった」 昨年11月18日にあった関西リーグ第6戦、関西学院戦の2日前だった。上野は先発予定。2年生からCTBのレギュラーだった。 話し合いはその夜、1時間ほどかけた。最終的に上野は従った。 「やってみます」 関西学院には28-6と勝利した。 「できない選手なら使っていない」 小松は50メートル走6秒0の速さ、180センチ、88キロの体を利した強いタックル、守備範囲の広さを評価していた。リーグワンチームからの誘いもあった。 関西学院戦の前に小松は上野を一度だけ外したことがある。2戦前、10月15日の立命館戦だった。特段の理由はない。上野は計算が立つ。試したい選手もいる。立命館と力の差もあった。スコアは68-0。上野は6日後のジュニア戦(二軍戦)に起用した。 「ジュニアの試合に出さない方がよかったのか…。そもそも、Aチームから外したことをもっと丁寧に話すべきではなかったのか…。彼は繊細なところがあった。関西の子のようにはっちゃけるようなところはなかった」 ただ、小松は次戦、11月5日の同志社戦で先発に戻している。ここから最後の帝京戦まで全6試合で先発として使い続けた。 上野がメンバー外しを直訴した頃、山中智也は異変に気づいていた。上野を含め仲の良い同期が6人いて、よく一緒に行動した。 「4人ほどで飲みに行った時、沈んだ様子でした。理由を聞こうと思ったけど、聞いてくれるな、という感じでした。今は、それでも踏み込んで聞けばよかった、と思っています。僕たちにすら気を遣っていました」 山中や上野は1月14日にライブに行く予定だった。その翌日、訃報が伝わる。上野がおれば、主務になった山中とともに主将の筒口允之(まこと)を補佐している。 「リーダー候補ということが重荷になったのだろうか…」 小松はそこにも理由を探す。