『新宿野戦病院』は令和に観るべき“反戦ドラマ”だった 宮藤官九郎が描き続ける生と死
この「四の五の言ってられない」感は、第10回と最終回で描かれる“アフターコロナ”に現れた新型ウイルス「ルミナ」のパニックでさらに色濃くなる。ラスト2回で描写された「パンデミックに陥った世界で炙り出される人間の愚かさ」は、自ら2020年にコロナに罹患した経験もふまえて、宮藤官九郎が最も書きたかったことなのではないかと思える。感染者や、感染者の勤務地・居住地への差別、流言飛語、風評被害、誹謗中傷。コロナ禍を経て、結局人間は何も学んでおらず、今日も同じ過ちをくり返している。 NPO法人「Not Alone」で新宿エリアの代表を務める舞(橋本愛)の父で、「歌舞伎町の風俗王」の異名をとる南錠一郎(松尾スズキ)による“ノブレス・オブリージュ”が痛快だった。「ルミナウイルスパニック」で治療に充てる人も場所も逼迫するなか、南は自らが経営し営業停止中の風俗店の店舗を宿泊療養施設として無償で提供する。「スケベ椅子」や「マット」が、乳幼児を持つ母のサバイバルギアとして有効活用されるシーンは笑えるうえに、これぞ「四の五の言ってられない状況」に対するソリューションであった。 こうした「清濁併せ呑む」描写、何事も安い美談に落とし込まず、誰かを断罪したりしないことが、このドラマの本懐であった。「歌舞伎町の赤ひげ親子」と呼ばれる高峰啓介(柄本明)とヨウコの、ルミナ患者の診療に奔走する姿は「業」として描かれた。やりたいからやっている。せざるを得ないからやっている。南の療養施設提供もしかりだ。 拝金主義の美容外科医としてチャラく生きてきた享が、ヨウコの「命の平等に対する“義侠心”」を引き継ぎ、聖まごころ医院の新医院長として奔走する展開が熱かった。風のように現れ、風のように去っていったヨウコによる「ショック療法」で、享が自分の生き方を見つめ直し、成長していく姿は、フィクションだからこそ描ける「未来への希望」だ。手錠をかけられたヨウコを見送りながら、「頑張んないとですね、まごころ。ここからですよ」と言う享の背中が頼もしかった。志のバトンは受け渡された。 色眼鏡から始まる差別、他者への乱暴なラベリングや断罪、命の軽視。これらは全て、戦争の根因だ。『新宿野戦病院』はこうした「戦争の種」となり得る事柄に全力で「No」を突きつける、れっきとした「反戦ドラマ」でもあった。作りとしては「雑でガサツ」でも、根底には「真の平等とは何か」を問い続ける知性があった。そして今日もヨウコは戦場でペヤングをかっ込みながら、「雑で平等な」医療に走り回っている。
佐野華英