京大出のロッテ田中が戦力外。なぜ京大、東大出身選手は成功できないのか
初の京大出身のプロ野球選手として注目を集めていた千葉ロッテの田中英祐投手(25)が3日に戦力外通告を受けた。わずか3年での非情宣告。2014年のドラフト2位。阪神もリストアップしており、もしロッテが2位で指名しなければ、3位以降で阪神が指名予定だった。大学出にしては線が細かったが、最速は148キロをマークしており、スライダー、フォークで三振も取れた。 1年目のキャンプ、オープン戦と順調で開幕1軍こそ外れたが、2軍で2試合14イニング無失点の結果を残し、4月29日の西武戦で初先発。しかし、6安打3四球5失点で、わずか3回KO。中継ぎ降格されたが、そこでも結果を出せず、試合後、2軍降格を通告された。ボールが半個甘くなるとプロでは通用しなかった。以降、2度と、1軍マウンドを踏むことなく戦力外となった。 プロ入団前は、コントロールが課題だと感じたが、いざプロの世界に足を踏み入れてみると「制球は大雑把でも球威とキレが必要」と感じるようになった。 慣れと課題克服で成功の可能性はあった。だが、過酷なプロの世界で肉体が悲鳴をあげてメンタルもパンク。いわゆる“イップス”となり、2年目はほとんど満足なピッチング練習さえできない時期が続いた。覚悟を決めて望んだ今年は「スリークォーター気味に」(田中)腕を下げ再起を喫したが、2軍戦でさえわずか3試合、2回3分の1を投げただけで終わり、球団としてはこれ以上契約を継続するのは難しい状況となった。 昨年、ピッチング練習が再開できない頃にインタビューしたとき、「確実に壁には当たっています。ここを乗り越えるか、越えられないかが、プロとしての正念場です」と語っていたが、148キロのストレートを取り戻すことができないまま、その壁を越えることなくユニホームを脱ぐことになった。 最高学府として、東の東大、西の京大と、並んで呼称されることが少なくない。過去にその難関の受験をクリアした最高学府から、プロ野球の世界へ進んだ“秀才選手”は、東大卒が5人いたが、いずれも成功できず、初の京大卒となった田中に、そのジンクス破りが期待されていたが、またしても夢破れた。 まだドラフト制度が導入されていない時代には、東大時代に東京六大学リーグ戦、通算68試合8勝43敗、防御率3.21、149奪三振の故・新治伸治氏が、大洋に進み、リリーバーとして活躍、2年で9勝を挙げたが4年で退団した。 所属年数で言えば、1966年に3位で中日に入団した井出峻氏と、2004年に9位で横浜に入団、その後、トレードされた日ハムを含めて2球団に所属した松家卓弘氏の8年が最高。 中日の井出氏は、投手で1勝した後に野手転向。東大卒初の本塁打を放っている。レギュラーを張ることはできなかったが、守備、走塁要員として重宝され、引退するまでに359試合に出場して、今なお東大卒の最多出場となっている。松家氏は、東大卒史上最速の152キロをプロで投げた右腕だが、1軍登板機会を得たのは入団5年目。日ハムにトレードされ、2010年は5試合に中継ぎ登板したが、2011、2012年と1軍登板ゼロで自由契約となった。松家氏は、2軍では結果を残し、その潜在能力に期待され、計8年間プロの世界に在籍したが1軍では活躍できなかった。 左腕の小林至氏は、1992年に8位でロッテに入り、在籍2年で1軍登板ゼロ。遠藤良平氏は、東大1年春から登板し、リーグ通算57試合登板、8勝32敗、防御率3.63、152奪三振の成績を残し、1999年に日本ハムに7位で入団したが、現役は、わずか2年で、1軍登板は10月の消化試合に打者一人に2球投げただけだった。 なぜ、東大、京大卒のエリートはプロで成功できないのか。