頭上にB29、忘れられぬ恐怖 87歳の藤森さん語る 長野県塩尻市
全校児童の上空に米軍の爆撃機・B29が飛来した時の恐怖―。長野県塩尻市大門四番町の喫茶店主・藤森志展さん(87)は戦時中を振り返る時、いつも思い出す。「戦争はいつも子供たちを不幸にする」。来年の戦後80年に向け、平和への祈りを強めている。 地元出身。太平洋戦争末期は国民学校(現在の塩尻東小学校)に通っていた。「防空壕を掘る」と称して全校児童が校庭に溝を造っていた、ある日。いくらも掘り進まないうちに、1機のB29が上空に現れた。子供たちはその姿を見るのが初めてだったが、先生が「B29だ」と叫ぶと、「怖い」「わあ」と悲鳴を上げたり、頭を手で覆ってしゃがみ込んだりして大騒ぎになった。幸い、その機体は何もせずに通過した。 物資不足でシャベルもなく、木の枝などを使って掘ろうとしていたのは深さ30センチ程度の溝。子供が横になって入るくらいしかできない。藤森さんは「今から思うと、仮に爆撃されてもどうしようもなかった。先生も子供たちも、役に立つか立たないかを考えるより、無我夢中で『戦争に勝つために何かしないと』という気持ちだった」と振り返る。 戦時中や終戦直後は物資、食糧不足がひどかった。手作りしたわら草履を履いて学校に通っていたが、よく鼻緒が切れ、はだしで通学したこともたびたびあった。学校に長靴が支給されたが、1クラスに30~40人いるのに、3足だけということもあった。コメはなく、サツマイモ、アワ、キビ、コーリャンなどを食べていた。ただ、父の幸恵さんが魚の行商をしており、松本の市場に魚を仕入れに行き、ヤミ市でチョコレートや砂糖を買ってきてくれたこともまれにあった。「うちはいくらかましだった」。 終戦後は会社勤めなどを経て大門周辺でバーや喫茶店、クラブを経営。現在は、生家のあった場所で喫茶店「田園」を営む。 少年時代に遭遇したB29への恐怖は、平和への願いの立脚点だ。「戦争は大人たちが勝手にやっているかもしれないが、子供たちが痛い、苦しい、悲しい思いをしている。ニュースで見るたびに、耐えられない思い」。戦火が絶えないウクライナやパレスチナに思いをはせる。
市民タイムス