藤原道長はどんな性格だったのか? 紫式部が日記に描いたプライベート&歴史物語に描かれたさまざまな「素顔」
とかく傲慢だったとして語られることの多い道長ではあるが、繊細で小心、感激屋で涙もろいという点をも併せ持っていた。『御堂関白日記』や『紫式部日記』、そのほかの逸話を参照しつつ道長の実像を見ていこう。 ■道長は、本当に豪胆な大人物だったのか? 『大鏡』や『栄花物語』を読む限り、道長は、豪放磊落且つ堂々とした振る舞いで、かの源頼光さえ「将帥の器」とまで讃えた大人物だった…と信じてしまいそうである。そこには、彼を褒め称えるような逸話が、これでもかと言わんばかりに盛り込まれているからだ。 父・兼家が公任の才を妬んで「影を踏むこともできまい」と嘆息した際には、二人の兄(道隆と道兼)が返す言葉もなく俯いていたのに対し、道長一人「影をば踏まで、面をやは踏まぬ」(影など踏まず、顔を踏んでやる)と言いのけたという。 また、花山天皇が宮殿において肝試しを命じた際にも、兄たちが恐ろしくて逃げ帰ってきたにもかかわらず、道長は一人大極殿まで行って、証拠として柱を削って持ち帰ったとか。これらの逸話はいずれも、彼の豪胆ぶりを言い表すものとして、よく知られるところである。 加えて、「一家三后」を成し遂げた後の祝いの席上で、有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ~」と詠んだというのも、おそらく知らぬ人はいないだろう。 これらの逸話だけから道長の性格を判断すれば、豪傑と言い切ってもいいのかもしれないが、はっきり言って筆者には、人間味の乏しい、なんとも「嫌な奴」としか見えない。勇ましさを前面に押し出し、さらにそれを鼻にかけるなど、噴飯ものとしか思えないからだ。 しかし、それって、本当に道長の実像と言えるのだろうか? 彼が長年にわたって書き著してきた『御堂関白日記』や、紫式部が記した『紫式部日記』などから垣間見られる道長像とは、大きく異なるからである。
■几帳面で感激屋で乱暴で… 例えば、『御堂関白日記』を見てみよう。そこに記されているのは、「誰それから馬や牛を何疋もらった」とか、「今日は物忌みだから外出を控えよう」あるいは「変な夢を見たから予定を取りやめた」などなど、些細なことを、実に事細かに書き留めている。そこから見えてくるのは、彼が極めて几帳面で且つ神経質な人物だったという点である。 また、『紫式部日記』などを見ると、紫式部の部屋の間仕切りにさりげなく花を一輪差し入れたり、初孫におしっこを引っ掛けられても嬉々として慈しみ、天皇の道長邸への行幸に感激のあまり涙し、たびたび娘・彰子の元に参上しては、行きあう女房たちに無邪気に冗談を飛ばす等々、こちらは感激屋で天真爛漫。しかもお茶目とも思えるような人柄がにじみ出ている。 そうかと思いきや、ライバルともいうべき甥の伊周とは、つかみ合いにもなりかねないほど激しく口論したこともある。左大臣だった頃には、祭に参加していた散楽人たちが気に食わぬとして、散々痛めつけたという乱暴な面もあった。 以上のことから鑑みれば、道長は、豪胆というばかりか、繊細で神経質。且つ、無邪気で天真爛漫でもあり、時には激情に駆られて乱暴を働くような人柄であった。もちろん、御曹司が陥りやすい、上から目線の傲慢さも、少なからず持ちあわせてしまったようである。 また、後半生には、娘たちを次々と入内させることにも躍起になった。その実現のために、虎視眈々と計略を練っていたことも疑いないことである。計略家としての一面も当然、持ち合わせていたはずだ。 となると、彼の不思議な性格が浮かび上がってくる。豪放磊落と言われる一方で、正反対とも思えるような繊細さをも兼ね備えていたことになる。そればかりか、天真爛漫と思いきや、思いの外の計略家。さらには、孫を慈しむかと思いきや、乱暴で冷酷な一面もあった。無邪気でありながらも実は老獪だったというように、さまざまな点において二面性を併せ持った複雑な性格の持ち主だったのである。 画像:国立国会図書館デジタルコレクション
藤井勝彦