「赤鬼」とはやしたてられ― 差別や偏見に苦しみ、隠れるように生きて 被爆者が立ち上がるまで #戦争の記憶
長崎で産声 スローガンに国家補償
ばらばらに活動していた被爆者の組織を藤居さんらがまとめ、56年5月に広島県被団協が結成。長崎でも6月に長崎原爆被災者協議会ができた。 そして8月10日、長崎市で開かれた第2回原水爆禁止世界大会の2日目の夜。長崎国際文化会館での原水爆被害者全国大会で、日本被団協は産声を上げた。 「今日までだまって、うつむいて、わかれわかれに、生き残ってきた私たちが、もうだまっておれないで、手をつないで立ち上がろう」。全国から集まった800人の中に阿部さんもいた。 〈私たちの体験をとおして人類の危機を救おう〉―。代表委員に選ばれた森滝市郎さん(1994年に92歳で死去)が、日本被団協の結成宣言「世界への挨拶」を読み上げた。その中には阿部さんがつづった詩の中の言葉も。壇上には原水爆禁止、被害者への国家補償がスローガンに掲げられていた。
なぜこのような被害がもたらされたのか
ノーベル平和賞の受賞演説で、日本被団協代表委員の田中熙巳さん(92)は、被団協の運動の歩みを語り、被爆者が核兵器廃絶と共に求めてきた国家補償について説いた。被爆者たちは、なぜこのような原爆被害がもたらされたのか、その責任のありかを追及し、二度と戦争を起こさない、二度と核を使用させないための道筋を探ってきた。 だが、「核兵器はなくなっているわけではなく、むしろ今一番危険を感じています」と阿部さん。 「ノーベル平和賞はこれまで頑張ってきた先達へのご褒美であり、いま生きている被爆者や、その心を継ぐ人にとっては、もっと頑張れというメッセージだと思っています」
取材を終えて
日本被団協へのノーベル平和賞授与が発表されたとき、取材を通して知り合い、すでに世を去った多くの被爆者の顔が次々頭に浮かんだ。被団協で被爆者運動の前線にいた人もいれば、ひとりの人間として教訓を伝えるため、若い世代に記憶を語っていた被爆者もいる。思い出すのもつらい体験を、記者に「伝えて」と語ってくれたのは、人類が二度と同じ過ちを繰り返さないようにという強い思いからだ。 むろん、被団協は、平和賞を受賞するために運動してきたわけではない。だがこれによってあらためて個々の被爆者の存在や、核が人類に何をもたらすのかという現実に、世界の目が向けられることにつながるなら、うれしく思う。 ただ世界は今、核兵器を持つ国の脅しや戦争という暴力にまみれている。ひとたび戦争になれば、ひとたび核兵器が使われれば、その傷は長く深く続く。きのこ雲の下にいた被爆者は、それを身をもって教えてくれている。同時に、戦争や核使用の主体である国家の責任についても考えさせる。阿部さんが絞り出すように語ってくれた言葉を、あらためて胸に刻む。 ※この記事は中国新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
中国新聞社