「赤鬼」とはやしたてられ― 差別や偏見に苦しみ、隠れるように生きて 被爆者が立ち上がるまで #戦争の記憶
「原爆一号」吉川清さんらと行動
ある夏、原爆ドームそばのバラックで「原爆被害者は声を掛けてください」と書かれた看板を見かける。熱線で一面ケロイドとなった自らの背中をさらして原爆への怒りを訴え、「原爆一号」と呼ばれた吉川清さん(1986年に74歳で死去)がいた。吉川さんはそこで土産物店を開き、請われて傷痕も見せた。「原爆を売り物にしている」と非難されもしたが、原爆の恐ろしさを知らしめるために奔走した。 社会の片隅で暮らす被爆者を訪ね歩いて生活実態を聞き取り、1951年には被爆者組織「原爆傷害者更生会」を結成。翌年には原爆詩人として知られる峠三吉さん(1953年に36歳で死去)らと「原爆被害者の会」をつくった。被爆者組織の草分けだった。 「ケロイドを気味悪がられ、銭湯で断られた被爆者のために吉川さんは自宅の風呂を沸かして被爆者に入らせたりしていました」と阿部さんは目を細め、回想する。吉川さんと妻の生美さん(2013年に92歳で死去)とはその後も家族ぐるみの付き合いになった。
初の国会請願へ
被爆から10年余りたった1956年3月、被爆者たちは初の国会請願を行う。広島・長崎から約50人が東京に出向き、政府閣僚や国会に切実な声を届けた。 率いたのは、後に日本被団協の初代事務局長となる藤居平一さん(1996年に80歳で死去)。傷つけられた体や奪われた命に対する原爆被害者の悲痛な声を「まどうてくれ(元通りにしてくれ)」と表した藤居さんは「あの日」、東京にいて被爆を免れた。だが銘木店を営む実家は広島市中心部にあり、父や妹を失った。 敗戦後、古里で家業を再建しながら民生委員を務め、原爆被害者の窮状を知る。やがて家業が傾くほどに被爆者救援と原水禁運動に心血を注いだ。 国会請願には、被爆者の会に出入りしていた阿部さんにも声がかかる。当時3人の子の母。家のいっさいを義母に頼むわけにはいかず、6歳の次男を連れて参加。窮状を訴え、被爆者救済を求めた。 しかし「色よい返事は得られず失望が強かった。きちんとした組織をつくって訴えなくてはとなりました」。疲れ切って広島に帰る夜行列車の車中、阿部さんは紙切れに詩をつづり、藤居さんに手渡す。 「悲しみに苦しみに/笑いを遠く忘れた被災者の上に/午前十時の陽射しのような暖かい手を/生きていてよかったと思いつづけられるように」 「生きていてよかった」と思う日が来るまで訴え続けなくては―。詩は被爆者たちを勇気づけた。