北の富士さん死去 82歳 優勝10回の第52代横綱 引退後は2横綱育て解説でも人気に
大相撲の元横綱で解説者としても人気があった北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき、本名・竹沢勝昭=たけざわ・かつあき)さんが亡くなったことが20日、分かった。82歳だった。ライバル玉の海と「北玉」時代を築き、現役時代は10回の優勝を果たし、師匠としては千代の富士、北勝海(現八角理事長)の2横綱らを育てた。解説者では歯に衣(きぬ)着せぬ発言やユーモアを交えた語り口調で人気だった。 名横綱にして、希代の名解説者が逝った。場所前に電話をした先代・玉ノ井親方(元関脇・栃東)によると、北の富士さんは少し言葉を発しにくそうにしていたものの、会話ができたという。しかし、その後体調を崩して東京都内の病院に入院、天国に旅立った。既に親族のみで密葬を執り行い12月にお別れ会を予定しているという。 北海道旭川市から14歳で上京。1957年初場所に出羽海部屋から初土俵を踏み、大関時代の67年に九重部屋へ移籍。スピードあふれる取り口が開花し、70年初場所後に好敵手の玉乃島(後に玉の海へ改名)と横綱同時昇進を果たした。身長1メートル85のすらりとした体からの右上手投げ、外掛けなどを武器に優勝を重ね、玉の海と「北玉時代」を築いた。対戦成績は北の富士の22勝21敗。玉の海は秋巡業中の71年に急逝したため、北の富士さんが一人横綱として奮闘するも、輪島、貴ノ花らの台頭もあり74年名古屋場所限りで引退した。 引退後は年寄「井筒」を襲名。井筒部屋を興したが、77年に九重親方(元横綱・千代の山)が亡くなった後は九重部屋と合併。九重親方として千代の富士、北勝海の両横綱ら多くの関取を育てた。相撲協会では理事を6期務め審判部長、広報部長などを歴任。98年の理事選挙で理事候補から外されたことで相撲協会を退職した。 その後はNHK専属の大相撲中継の解説者として活動。放送席で渋い和服やダンディーなスーツを着こなし、力士や親方衆へ時に厳しく、時に優しくメッセージを送った。歯切れいい口調は70歳を超えても若々しく、角界のご意見番であり続けた。昨年春から体調を崩して以降は解説を休んでおり、今年7月の名古屋場所初日にはNHKテレビ中継にVTRで出演。「皆さま、お久しぶりです」などと語っていた。 ≪72年初場所貴乃花との一番で異例の5分間協議“かばい手論争”≫72年1月、初場所の横綱・北の富士―関脇・貴ノ花戦は後に「つき手、かばい手論争」を呼んだ一番。北の富士に足を掛けられ、体勢を崩した貴ノ花は弓なりになってこらえると逆転のうっちゃりを狙う。先に土俵についたのは横綱の右手。軍配は貴ノ花に上がるが、直後、審判から物言いがついた。ケガを避けるために先に手をついたのであれば「かばい手」で負けではない。問題は貴ノ花の体(たい)が生きているか否か。協議は異例の5分間に及び、結果は行司差し違えとなった 北の富士 勝昭(きたのふじ・かつあき=本名・竹沢勝昭)1942年(昭17)3月28日生まれ、北海道旭川市出身。57年初場所で初土俵を踏んだ。70年初場所後に第52代横綱に昇進。同時昇進の玉の海としのぎを削った70、71年は「北玉時代」とも呼ばれた。74年名古屋場所限りで引退。幕内優勝10回(全勝3回)。通算成績は786勝427敗69休。殊勲賞2回、敢闘賞1回、技能賞3回。九重親方として千代の富士、北勝海の2横綱を育てた。協会では理事の要職を務めたものの98年に退職。NHK大相撲中継の解説を務め人気を博した。