初代タイガーマスクが亡くなった“虎ハンター”小林邦昭さんに捧げる10カウントゴング「17歳からこの歳になっても尊敬し合っていたライバルでした」
26日、東京都・後楽園ホールにて『初代タイガーマスク ストロングスタイルプロレスVol.30』が開催。“初代タイガーマスク”佐山サトルが小林邦昭さんを追悼した。 小林さんは1972年に新日本プロレスへ入門し、1973年にデビュー。 メキシコ武者修行後の1982年からは初代タイガーマスク(佐山サトル)との抗争で人気を博し“虎ハンター”の異名を取って大暴れ。 長州力ら“維新軍団”として新日本を離脱してジャパンプロレスへ。全日本プロレスでの2代目タイガーマスクとの抗争を展開して人気を博し、1987年に新日本へ復帰。その後は反選手会同盟や平成維震軍で活躍。2000年4月21日に引退し、新日本プロレスの道場管理人として後進の育成に努めていた。 1992年7月に大腸ガンが発覚し、その後は1993年2月に復帰を果たすものの、1999年にはガンが肝臓に転移し肝臓切除手術も行った。ガンと闘いながらも現役を続けた小林さんに勇気付けられた人間は多い。 小林さんの現役時代を見たことがないファンも増えているが、獣神サンダー・ライガーの引退試合への登場や節目節目のセレモニー等で登場していた他、なにより若者たちを見守るお父さん・おじいちゃん的なポジションとして現役選手の口から語られる機会も多かったことからファンの知名度は未だに高い。 昨年10月には、復帰を目指して病と闘う初代タイガーマスクを元気付けるためのトークショーに出演し「これからもプロレス界をバックアップして頑張っていく」と佐山に花束を渡し激励していた。 この訃報を受けた佐山は、小林さんが旅立つ2週間前に電話で話したことを振り返り「青春を共有した戦友。最高のライバル。思い出は沢山沢山あります。小林さん有難う御座いました」と追悼のメッセージを発していた。 この日は小林さんの死後初の大会であり、追悼セレモニーが実施。
追悼セレモニーには、“初代タイガーマスク”佐山サトル、“過激な仕掛け人”新間寿、和田政宗コミッショナー、平井丈雅代表、永田裕志、船木誠勝、スーパー・タイガー、間下隼人、日高郁人、和田良覚レフェリー、テディ・ペルク国際部長、初代タイガーマスクマスコットガールの野尻栞里さんを始めとした初代タイガーマスク応援少年少女隊の皆さんが出席。 初代タイガーは「17歳から18、19、20歳とこのリングの上で小林邦昭さんとともに高め合って最高の試合を行ってきました。小林さんは僕を後輩でありながら引っ張り上げてくれました。亡くなる1週間前に『俺たち良い試合をしたなぁ』と小林さんが言いました。僕はタイガーマスクの試合のことかと思ってたんですが、彼が言ったのは若手の時代。僕たちは70試合もやりながら、僕は1回も小林さんに勝てなかった。その時代のことを言ってました。その思い出に2人で浸りながら、『お互いに病気が治ったら飯食いに行こうな』という話をして、それが最後の会話になりました」と語り始める。 会場がしんみりとしてしまったのを見た初代タイガーは「17歳から今、20年経ちますが……」とタイガージョークを飛ばして空気を和ませ「小林さんは僕にとって良きライバルであり恩人でもあり、“タイガーマスク”を創ってくれた人間であり、お互いにすごいライバルでありました。ベビーフェイスとヒールという、タイガーマスクと虎ハンターという、そんなことは一切関係なくライバルでした。時は流れ、この歳になってもお互い尊敬し合っていました。小林さんが亡くなって……永遠の眠りについたことは。非常に残念で仕方ありませんでした。今、小林さんはこの会場に来ていると思います。必ず小林さんのために、プロレス界を新間さんと一緒に盛り上げていきたいと思います」と明るく締めた。 その後は小林邦昭さんに捧げる10カウントゴングが打ち鳴らされた。 バックステージに戻った初代タイガーは「いろんな時代があったことを思い出しちゃってね。若い頃の試合を思い出しました。非常に残念です」とポツリ。 その後は周囲が初代タイガーから小林さんの話を聞こうとあの手この手で話を振るが、横に座る新間会長が力道山先生や猪木会長との思い出話をたっぷりと語っている間に次の試合が始まってしまったため、小林さんの話はほとんど出ないままインタビューは終了となった。