読書家ランナー・田中希実の思考力とケニア合宿で見つけた原点。父・健智さんが期待する「想像もつかない結末」
父から娘へ送られた言葉「一子(思)相伝」
――トップアスリートの言葉は影響力も大きいと思いますが、健智さんが大切にしている言葉はありますか? 田中:希実が中学・高校ぐらいのタイミングで自分から贈った言葉があるんです。「一志(思)走伝」という言葉で、「一つの志を持って走ることで、人に伝わることがある」という意味で、それが物事の考え方や、走り方につながっていたのかなと思いますし、今も体現・表現しようとしてくれているのかなと。それはこれからも大切にしてもらいたいなと思っています。 ――どんな思いで、その言葉を希実さんに送ったのですか? 田中:本来は「一子相伝」という、漢字が違う言葉で、「自分の子どもの一人に奥義を伝えること」という意味があるのですが、当てる漢字を変えて造語にしてみたんです。「一志(思)走伝」は、自分の志や強い思いを走りで見ている人に伝えて、走る姿で伝えていってほしい。それが希実らしい走り方につながるだろうから、という意味で、その言葉を送りました。そうやって取り組んできたことを、「言葉でも伝えないといけない」という思いが、彼女が発するいろんな言葉の中にちりばめられているのかなと思います。
2022年にスタートしたケニア合宿「大切な気持ちを取り戻せた」
――年明けにはケニアで3度目の合宿を行ったそうですね。ケニアは、1500mと5000m で世界記録保持者のフェイス・キピエゴン選手を輩出し、マラソンでは世界一結果を残してきた国でもあります。実際に現地でトレーニングをしようと思ったのは、どのようなきっかけだったのですか? 田中:国内で小さく留まるより、世界を見て、自分の立ち位置を知りたかったんだと思います。ケニアはすごく居心地の良い国でした。いろいろなインフラが整備されていなくて、生活面では不安な部分もありましたが、希実も私も含めて、精神的な部分で大きく解放されて、本当に忘れていたものを思い出すような感じがありました。希実にとっては、「純粋に速い人について行く」という、小さい時にただただ駆けっこしていたことを思い出すような、単純でシンプルな部分がすごく楽しかったんだろうなと思います。 ――競争というよりは、速い人たちと一緒に走るのが楽しいという感覚なのでしょうか? 田中:そうですね。勝ち負けなしに、ただついて行くことが楽しかったり、負けても純粋に「くそーっ!」と思って、それをマイナスに捉えるのではなくて、「明日頑張ろう」って、ケニアにいた時は思えていたと思うんですよ。ケニアのコースは計算できないんです。先がどうなっているのかもわからないコースを無我夢中で一緒に走って、置いていかれても、ついていけたとしても楽しくて、「次の日も頑張ろう」と思う気持ちが大切なんだなと。その気持ちを取り戻せたのがケニア合宿だったと思います。ただ、日本に帰ってきたら「なんであの時走れなかったんだろう」とか、「タイムが悪い」という感覚になってしまうんですけれどね。 ――定期的にケニア合宿を行っているのは、初心に立ち戻る意味もあるんですね。 田中:そうですね。まだまだいろんなことを学ぶ必要がありますが、その大切な部分は忘れたくないです。例えば欧米のチームと混ざっても、その国にとってランニングは文化であり、ビジネスでもある。一方で、アフリカでの生活って「ライブ」なんですよね。その部分がすごく強烈で、他の場所では学べないものを学ばせてもらうことができるし、忘れていたものを思い出させてもらえるんです。ただ、アフリカだけに偏ってもいけないと思うので、日本と欧米とアフリカ、ワールドワイド的なすべての要素が融合した取り組みをしていきたいと思っています。それが気兼ねなくやれるようになったのも、昨年プロに転向したこと(*)が大きいと思いますね。 (*)2023年4月に所属していた豊田自動織機を退社し、ニューバランスに所属しながらプロとして活動することを発表した。 ――世界と戦う力をつけるための環境を模索しながら、枠にとらわれない挑戦が思う存分できている、という感じでしょうか。 田中:ええ。やはり企業に守られて、言われたことを聞いて動けばありがたいし楽ですが、プロに転向してからはそのコントロールが自分たちに委ねられたので、思い立ったら行動に移せるし、できなかったら「次はどうしようか」と、その都度発想を変えられるようになったのは良かった面です。 ――実際、昨年はオーストラリア、アメリカ、フィンランド、タイ、ドイツなど、さまざまな国で大会に出場しました。そういった具体的な活動もイメージした上でのプロ宣言だったのですか? 田中:最初は予期せぬ形でプロに転向することになったのですが、結果的には、去年1年振り返ったときにそこに導かれていたのかな、と感じます。その都度、やりたいことに飛び込んでいくことで、確かに休みがなくて忙しかったのですが、その分、学ぶべきことがたくさんありました。また、10月から12月にかけての年末は、例年は駅伝のための体作りや精神面のコントロールが必要だったんですが、そういったことに取り組む必要がなかったんです。その中でありがたいことにイベントのお話をたくさんいただいて、陸上のイベントでも、ただ走るのではなく、これまでとは違う形で走りと向き合うことができました。そこで自分を見つめ直す時間を持てたと思うんです。だから、結果的にはすべてのことが無駄ではなかったんだな、と思えました。