皇子を産みながら后になれなかった藤原詮子
■中宮として迎え入れられなかった詮子の傷心 しかし、円融天皇が寵愛したのは、皇子を産んだ詮子ではなく、藤原頼忠の娘である藤原遵子(のぶこ)の方だった。遵子は子どもを産んでいないにもかかわらず皇后に取り立てられた。遵子は「素腹の后」と揶揄された(『栄花物語』)が、その一方、ひどく傷つけられた詮子は、まもなく実家である東三条殿に引きこもり、参内すらしなくなった。しかも、唯一の皇子である懐仁親王を連れてのことだった。 984(永観2)年に円融天皇は退位。花山(かざん)天皇が即位すると、懐仁親王は立太子(りったいし)した。986(寛和2)年には、花山天皇の突如の出家により、懐仁親王は一条天皇として即位(『日本紀略』)。父の兼家は念願の摂政に就任し、詮子は天皇の生母として皇太后となった。女御から中宮を経ずに皇太后となったのは、詮子が初めてだった。 990(永祚2)年に父・兼家が死去。その翌年に円融法皇が崩御すると、詮子は天皇家における事実上のトップに立つこととなった。 兼家の後を受けた長男・道隆が詮子を後ろ盾にさらなる地位の強化を図るなか、詮子は991(正暦2)年に病気を理由に出家。東三条院を号した。女院の誕生は、これもまた、史上初のことである。 出家後も政界に強い影響力を持ち続けた詮子は、道長が権力を掌握する過程を支援した(『大鏡』)。道長の長期政権誕生は、詮子の後押しなくしては成立し得なかったともいえる。 道長が姉の詮子をことのほか大切にしたのは身内だからというだけでなく、このような事情も背景にあるが、子の一条天皇も同様だ。石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう/京都府八幡市)への行幸の際、一条天皇が詮子に丁重に挨拶を済ませたことを、清少納言は称賛している。天皇という位にありながら、母に礼を尽くす様があまりに素晴らしく、涙で化粧した地肌があらわれてしまった、と自著に書き残している(『枕草子』)。 家族だけでなく、多くの人々の尊敬を集めた詮子だったが、晩年は病気がちだったらしい。 いよいよ病状が深刻となった際、陰陽師の安倍晴明が病床に招かれた。晴明の占いによると方角が悪いと出たために、詮子は自邸から藤原行成(ゆきなり)の邸宅に移った(『権記』)が、それからまもなくとなる1001(長保3)年に死去。40歳だった。 「愛敬づき気近くうつくしうおはします」(『栄花物語』)との記述から、美しく可憐な女性だったことがうかがえる。
小野 雅彦