ブレイディみかこ「英国の元公営住宅地が人気の物件に。顔見知りの人が減っていく町で思うこと」
イギリス在住のブレイディみかこさんが『婦人公論』で連載している好評エッセイ「転がる珠玉のように」。今回は「顔見知りがいなくなる町で」。26年住んでいるブライトンの街。周囲は顔見知りばかりと思いきや、いまや近隣は知らない人だらけだそうで――。(絵=平松麻) * * * * * * * ◆ブライトンのバブル 26年も同じ家に住んでいると、近所はみんな顔見知り、なんてことになりそうなものである。確かに、10年ぐらい前ならうちの周囲もそんな感じだった。だが、いまや近隣は知らない人だらけである。 わたしが住んでいるのは元公営住宅地で、団地ではなくてセミディタッチド・ハウスという、建物も庭も真ん中で分断された、2世帯が住める一軒家(英国の地方の町には多い)だが、こうした公営住宅には「安っぽい、ダサい、地域の環境がよろしくない」という偏見がある。だから、あんまり値が上がらなかった。しかし、住宅価格が高騰するにつれ、家を買えなくなった若い人たちが安い公営住宅を買ってリフォームにお金をかけたり、改築したりするようになった。そうこうするうちに、他の地域に比べれば安いとは言え、元公営住宅地の価格まで上がってきた。 その頃、ご近所の家が一軒、また一軒と売りに出始めた。価格が上がったところで家を売って、もっと田舎に安い家を買い、余ったお金を老後のために貯金する、という生存戦略を取る人が出てきたのである。もともと、大金には縁がない労働者階級の多い地域だったから、みんな自分の家の値段が上がってきたことにザワつき、価格が落ちないうちにさっさと売ろうと考えたのだ。 ここ数年、この動きにさらに拍車がかかった。コロナ禍が終わったら住宅バブルがはじける、物価高と生活苦の時代到来で住宅バブルがはじける、と言われ続けてきたからだ。だが、ブライトンのバブルはいっこうにはじけない。
◆周囲の環境だけではなく生活様式も変化 どうもブライトンは人気らしいのだ。というのも、ハイブリッドワークを取り入れる企業が増え、週に3日だけオフィスに行けばいい、みたいな働き方改革がコロナ禍で進んだため、海辺のリゾート地(=ブライトン)に住んでたまに都会(=ロンドン)に通勤する、というライフスタイルを選ぶ人が激増したのだ。とはいえ、海辺の住宅は高すぎるので、内陸部にまでこの波が及んでしまった。 おかげで、うちのような元公営住宅地でも住人の入れ替えが起きた。まず、住人たちがめっきり若く、スタイリッシュになり、裕福そうな移民が増えて国際化した。通りがミドルクラス風になるってこういうことなのね。つくづくそう思う。血統書付き、みたいな立派な犬を連れて散歩しているパリッとした人々の姿を窓から見るにつけ、自分の家にいながら、なんか落ち着かない。 変わったのは周囲の環境だけではない。生活様式も変わった。久しぶりに近所の郵便局(と言っても、雑貨屋の一角)に行く道すがら、そんなことを考えていた。ほんの数年前まで、頻繁に郵便局に通ったものだった。が、いまやすっかりそれもなくなった。以前は日本の出版社に送る契約書だの許諾書だのという書類があったのだが、ここ数年で書類のデジタル化が進み、オンラインでの署名だけで済む会社が増えたので、わざわざ茶封筒を持って郵便局に行くこともなくなったのだ。 とはいえ、古式ゆかしい紙の書類を使っている出版社もある。それで数ヵ月ぶりに郵便局に向かったのだが、雑貨屋の隅にある郵便局のカウンターに立っていたのは、いつものインド人女性だった。だが、「ハロー」と挨拶しながらわたしは戸惑った。その女性は、以前からそこにいた店主の妻のような気もするのだが、全体の印象が前に会ったときとまるで違っていたからだ。喋り方もやけにゆっくりになっていて、言葉が聞き取りにくい。これはいつも窓口に立っていたあのチャキチャキした女性ではなく、彼女の母親ではないか、と思った。だが、いくら親子でも顔がこれほどそっくりということがあるだろうか。
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