バブル末期、利潤の追求より「倫理の大切さ」を訴えた東大総長の深いスピーチ
確かにこの時期の日本は、一種の狂躁状態にありました。銀座のクラブやバーには毎晩のように社用族が訪れて高級なシャンペンを開け、道路には送迎用のリムジンやら外車やらが所せましと並んでいる。六本木のディスコには若者たちが繰り出して、明け方まで踊り明かす。あいにく私自身にはまったく無縁の世界でしたが、テレビにはそうした風景が日常的に映し出されていました。 当然ながら就職に関しても完全な売り手市場で、特に都市部の有名大学の学生は格別に努力しなくても容易に一流企業に職を得ることができましたから、学生たちのメンタリティに鼻持ちならない驕りが生まれないほうが不思議なくらいです。そうした時代背景を踏まえてみると、「青くさいそして古くさい議論」であることをじゅうぶん承知しながらも、いかなる状況にあっても変わらぬ尺度である倫理観の重要性を訴え、あえて「高い倫理性を伴う人生を送る」ことを新入生に求めたくなる気持ちはよく理解できます。
日本の教育に不足している「明晰かつ判明な論理」
いっぽう、有馬総長はヨーロッパで1992年の市場統一を目指す動きが加速していること、またアジアでも各国間の相互依存性が高まっていることに触れた上で、こうした多極化の時代には「情緒的な対処の仕方では日本は、先進諸国に伍して行くことは出来ません。今こそ、論理的、理性的に判断をする必要があります。この論理的な思考法こそ大学で学ぶべきことです」と述べています。 〈日本の教育において論理学と修辞学の訓練が不充分であることは、よく知られているところです。我々には寡黙を美徳とする習慣があり、又他人と直接意見を戦わさないようにむしろ努力をします。以心伝心という禅の言葉があります。真理は言葉では表せず、心で伝えるものであると言うのですが、この考え方は、我々の日常生活にも影響を与え、問答において「はい、いいえ」を曖昧にする傾向があります。このことは、狭い国土に大勢の人が住んでいる日本人が生み出した生活の知恵であったとも言えます。このような日本人の性格もあって、論理学と修辞学が重要視されなかったのかと、私は考えています。〉 論理学と修辞学は、文法学とともに中世ヨーロッパにおける「三学」をなす重要な要素で、これに幾何学、算術、天文学、音楽の「四科」を加えた「自由七科」artes liberales(アルテス・リベラレス)が、今日の「リベラルアーツ」の源流とされています。これらは西欧では自立した教養人が身につけるべき必須の学芸とされていましたが、そうした伝統をもたない日本では、自分の考えをはっきり言葉にして論理的に伝える習慣がなく、なんとなく曖昧なままで相互了解が成り立つことが多いというのは、確かにあちこちでよく言われる話です。