マスコミ嫌いな「中京の勝負師」 父急逝で学生時代に家業継ぐ 近藤信男(上)
相場を愛し、相場に愛された「中京の勝負師」近藤信男。「そこに相場があるから張る」「授業料を使い込んで相場を張る」など相場をめぐる名言と逸話に事欠かない人物です。慶應義塾在学中に父・繁八が急逝し、家業の再建に取り組むことになった近藤は、綿花、綿糸相場で巨利を占め、第2次世界大戦後には引き継いだ近藤紡績所を大手に育て上げました。マスコミ嫌いや人嫌いでも知られた近藤が、綿花相場の大勝負に臨むまでを市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。 【画像】一代で巨富築いた大投機師、父の借金完済した“節倹9カ条” 諸戸清六(上) 3回連載「投資家の美学」近藤信男編の1回目です。
「死ぬときは相場で死ぬ」が口癖
極端なマスコミ嫌いで人間嫌いの近藤信男・近藤紡績所社長が晩年心を許した1人のジャーナリストがある。「人間的魅力の研究」で知られる伊藤肇がそれだ。伊藤を前に近藤が長広舌を振るった。 「そこに山があるから登るんだ。そこに相場があるから張るんだ。……相場に勝つということは結果であって、目的じゃないんだ。苦心惨たんして、相場を張り、それが思惑通りにいったときの戦慄するような楽しさだな。こいつだけは相場をやったものでないとわからんだろうよ」 “死ぬときは相場で死ぬ”が口癖の近藤信男の相場談義は続く。 「おれにとって株は女道楽みたいなものだ。だましたり、だまされたり、成功したり、失敗したり。しかし、それが楽しいのだ。小唄の文句にもあるだろう。 だまされているのが遊び/ なかなかに/ だますお前の手のうまさ/ 水鶏(くいな)きく夜の酒の味/ ってな。だが、綿糸はおれの本業であり、背骨だ」
慶応在学中、家業再建に取り組むことに
経済ジャーナリストとして一代を画した伊藤は独特の人物評論で知られ、近藤信男と会見の許される数少ない新聞記者の1人だ。 「中京の勝負師」「怪物相場師」「売りの近藤紡」などと呼ばれ、戦後の投機市場に巨歩を残す近藤信男は明治36(1903)年、愛知県に生まれた出身。父、繁八は名古屋市の中心街である広小路で綿糸商「近藤商店」を開いていた。大正3(1914)年、第1次世界大戦が勃発した年に、繁八は「近藤紡績所」を創設する。紡機4,000錘(すい)、織機60台でスタートしたする。同じ年に東洋紡績が誕生しているする。 相場が大好きだった繁八は、相場が大好きで綿糸相場で大がかりな作戦を展開し、大阪三品取引所の「田附将軍將軍」こと田附政次郎(たつけ・まさじろう)と対決したこともあるという。だが、昭和2(1927)年の金融恐慌で破綻し、同4年、世界大恐慌の手前とばっ口で急逝する。当時、慶応義塾理財科(現経済学部)の学生だった近藤信男は、家業の再建に取り組むこととなる。 「経済学の勉強どころか、授業料を使い込んで兜町で相場を張り、賭け事がメシより好き、ことに花札に熱中するという惣領の甚六を地で行く放蕩児……『近藤紡績所の余命はいくばくもない』……周囲の人々は、一致して最悪の事態を想定した」(藤野洵著「人間近藤信男」)