マスコミ嫌いな「中京の勝負師」 父急逝で学生時代に家業継ぐ 近藤信男(上)
NY綿花相場に「買いだ」大量注文
だが、大学のある三田の遊侠の徒もお家の一大事とあっては、菜っ葉服の仕事師に大変身する。朝5時に起きて、仏前に手を合わせると、あとは夜中まで仕事に打ち込んだ。「織機の下にもぐり込んで陣頭指揮を取っている」という噂が立つほどの働き振りであった。この時、近藤を支援したのは母方の叔父、永岡弥兵衛。「永岡将軍」と呼ばれた相場師で、近藤が師と仰ぐ人物。永岡から相場指南を受けながら、近藤紡績所は窮地脱出を図る。 永岡弥兵衛について「中京名士録」は次のように記している。 「君は名古屋の生める一代の商傑、絶倫の才幹を提げて守成に甘んずること能わず、たまたま義兄近藤繁八が綿業界に一大飛躍を起こすに及び、家業は令弟に委し、近藤氏の帷幄(いあく=作戦計画を立てる本陣)に入り、その謀將として画策に努め、近藤氏が斯界の旭將軍として雄名を天下にとどろかせたのも、君に負うところ少なからぬものがある」 永岡は義兄が急死した時、専務取締役として屋台骨を支え、2代目社長信男への橋渡し役を務めた。「中京名士録」は続く。 「君は大胆にして細心、ことに臨んで思慮すこぶる周到、微細をうがてる採算によって大勢の赴くところを洞察し、確固たる信念を得るや決然邁進して眼中に前敵を見ず。戦えば必ず勝つも決して偶然ではない」 永岡は成り行き注文をしなかった。必ず1節10枚の指し値注文に徹した。大胆にして細心といわれるゆえんである。 そして昭和7(1932)年、近藤信男は大勝負に出る。ニューヨーク綿花相場のケイ線をにらんでいた近藤が思わず「買いだ」と叫ぶと、取引商社もびっくりするほどの大量の注文を出した。=敬称略
■近藤信男(1903~1973)の横顔 明治36(1903)年7月5日、名古屋市で生まれた。父親繁八は明治から大正にかけて相場師として鳴らし、近藤紡績所を創業した立志伝中の人物。繁八は大正11(1922)年5月、名古屋綿糸布取引所(第2次大戦後、名古屋繊維取引所として復活、のち中部商品取引所に統合)の初代理事長に就任。昭和4(1929)年、慶応義塾に在学中に繁八が急逝。信男は昭和7(1932)年、大阪三品取引所に上場の綿花、綿糸相場で巨利を占める。第2次世界大戦後は近藤紡を大手紡績に育てる。株と商品をまたにかけて大活躍、同46(1971)年、中山製鋼株の仕手戦で巨損をこうむり、同48年没