天皇陛下退位後の称号で候補として話題 学校で学んだ「上皇」とは
天皇陛下の「お気持ち」を受けた安倍首相の諮問機関「有識者会議」での検討が進むにつれ、退位が現実味を帯びてきました。退位後の称号をどうするのか? 政府内では、「上皇」が候補のひとつに挙がっているようです。 上皇は中学校の歴史で学びます。高校入試の頻出事項なので、多くの方は暗記すべき“受験用語”として記憶されているのではないでしょうか。ただ、承久の乱(1221年)をおこした後鳥羽上皇をはじめ、教科書でも内乱や政争と絡んだ記述が多いので、あまり良いイメージを持たれていないかもしれません。 日本国憲法では天皇に政治的権力はありませんが、こうした負のイメージを理由に、専門家の間からは「上皇」という称号に後ろ向きの意見も出ているようです。
最初の上皇は男性ではない?
江戸時代まで、天皇が退位して上皇になるのは、決してめずらしいことではありませんでした。本院・新院などとして複数の上皇がいたこともあります。また、上皇が出家して法皇となる場合も多く、同時に天皇・上皇・法皇が存在したこともありました。なお、上皇・法皇ともに略称で、正式には「太上天皇」(だいじょうてんのう、または、だじょうてんのう)「太上法皇」といいます。 上皇の起源は、律令制度が整備されていった7世紀末に遡ります。生前に退位する事例はそれ以前もありましたが、697年に女性の持統天皇が孫の文武天皇に譲位し、太上天皇(上皇)と称したのが最初です。 持統天皇は上皇になったあとも、亡き夫・天武天皇の遺志をつぎ、愛する孫とともに律令国家の建設につとめました。701年には、律令の集大成となる「大宝律令」を完成させています。天皇・上皇が制度として国を治めるしくみも、この頃に整備されました。ただし、教科書には「持統上皇」の名では登場しません。
上皇と天皇の確執が、武士の台頭を招いた?
中学教科書に上皇が最初に登場するのは、平安時代後期。藤原氏の摂関政治が終わり、天皇親政が復活した頃です。1086年、白河天皇がわずか8歳の堀河天皇に譲位し、院庁(いんのちょう)という機関で政務につきました。白河上皇となっても、「治天の君」として、政治の実権を手放さなかったのです。その後、1世紀にわたってつづく「院政」のはじまりです。 この時代の「院政」は会社組織にたとえると、経営者が息子や弟に“社長”の座をゆずったあとも、“会長”として経営の座に居座りつづけるようなものでした。上皇は天皇のような厳しい制約がなく、経営を自由に舵取りできたのです。ただ、親子・兄弟の仲が良ければ問題ありませんが、経営方針をめぐって睨み合うこともありました。 1156年、こうした朝廷のお家騒動が内乱に発展します。“相談役”鳥羽法皇が亡くなったあと、兄の“会長”崇徳上皇と弟の“社長”後白河天皇が対立。これに“重役”藤原一族の内紛が絡んでいったのです。両陣営とも“用心棒”の武士をやとい、争いへと突入していったのでした。用心棒は源氏と平氏で、この保元の乱をきっかけに、武士が朝廷の政治に深く関わるようになったのです。