藤原道長と天才作家・紫式部の熱愛疑惑⁉ ほんとのふたりの関係とは⁉
大河ドラマ「光る君へ」で注目を浴びる藤原道長と紫式部の関係性。史実は実際、どのような関係だったのだろうか? ■紫式部と道長の関係は?日記に残る意味深な記述 紫式部は藤原道長の召人(めいうど)であったとする説がある。召人とは、主人筋と男女の関係にある女房をいう。『源氏物語』にも少なからぬ召人が登場する。古くは、14世紀後半に成立した系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』は紫式部の箇所に「御堂関白道長妾云々」と注記する。妾とは実質的に召人を指している。「云々」というように、断定はしていないが。 このような伝承は『紫式部日記』に、次のような贈答歌があることによるのだろう。 夜もすがら水鶏よりけに なくなくぞ まきの戸ぐちに たたきわびつる ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし 省略した詞書を含めてこの部分を読み解いてみよう。紫式部が渡殿(わたどの)にある局つぼねで寝た夜、戸をたたく人がいたが、恐ろしくて、気配を消して夜を明かした翌朝に、戸をたたいた男から歌が来た。「一晩中、水鶏さながらに私は泣きながら、そなたの戸口を叩き続けたことだ」。 水鶏という水鳥は鳴き声が戸をたたく音に似ていて、しばしば求愛の場面で和歌に詠まれた。それに対して紫式部は「ただではおくまいと激しく戸を叩かれるあなたさまゆえに、開けてはどんなに後悔したことでしょうね」と返歌をしている。この戸口を叩いた男とは、前の部分との繋がりから道長と考えるのが定説となっている。 道長からの求愛を書き留めておきたい思いが紫式部にはあったのではないか。身近な同僚には、大納言の君のように道長の召人になっている人物もいた。このような場面を記すこと自体、『尊卑分脈』のような理解が生じることも十分織り込み済みであったことだろう。「恐ろしくて戸を開けられなかった」と紫式部は記しているが、一方で紫式部の返歌は道長を揶揄するような余裕が感じられる。このようなやりとりを記しても、許されるのが2人の関係だったのではないだろうか。だからこそ現代に言う「におわせ」に近い、微妙なものを読み取ることができるのだろう。ここでは拒絶したが、次に戸が叩かれたら、戸を開けたことを暗示しているのである。 しかし、両者の関係には、さまざまな意見があり、召人説を強く否定する研究者も多い。この問題は永遠の謎として、議論され続けることだろう。 監修・文/福家俊幸 『歴史人』2024年2月号『藤原道長と紫式部』より
歴史人編集部