出世街道を突き進むも失態し転落…から復帰したポジティブ武将【仙石秀久】
ほとんど知られることのない戦国武将だった仙石権兵衛秀久は近年、漫画『センゴク』で主人公として描かれ、改めてその存在がクローズアップされた。秀久は、天文21年(1552)、美濃の豪族の子として生まれた。始めは斎藤家(道三・義龍)に仕えていたが、その後は織田信長の家臣となり、さらには羽柴秀吉の配下・馬廻衆となった。長身で筋骨隆々とした体格は、遠目にも勇敢な武者姿であったという。 秀吉によって引き立てられた秀久は、実践でも才能を表し、姉川合戦(織田・徳川連合軍vs浅井・朝倉連合軍)で手柄を挙げたのを皮切りに、秀吉の中国地方遠征でも、いくつかの城取に成功し、秀吉の出世に貢献した。 本能寺の変後に天下取りに動いた秀吉の子飼いとして活躍し、四国では長宗我部元親と対峙して四国に留め置いたことも、秀吉と柴田勝家の戦い・賤ヶ岳の戦いを秀吉が勝利した一因ともなった。この功績で秀久は、淡路1国と洲本城主5万石の大名になった。その後、讃岐(香川県)・高松10万石に加増など順調に出世街道を歩んだ。 秀吉から期待された武将となった秀久は、九州征伐では讃岐・虎丸の十河存保(そごうまさやす)、土佐・岡豊の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)といった四国の武将たちとともに出兵し、その軍監ともなっていた。敵は島津勢2万5千であり、味方は豊後・大友勢を加えても1万足らず。秀吉からは「本隊到着を待つように」と命じられていたが、強気の秀久は功を焦り、攻撃命令を下す。元親が猛反対したのに秀久は、冬の戸次川を強行に渡ろうとして島津勢の反撃を食らった。このために、元親の子・信親や十河存保などが討ち死にするという敗戦となる。しかも秀久は、混乱し、散り散りになった四国勢を置き去りにして小倉城に逃げ、さらには讃岐まで逃げ帰るという失態を演じてしまった。秀久は「三国一の臆病者」と嘲笑されるに至った。 激怒した秀吉は、秀久を高野山に追放し、所領を召し上げてしまった。つまり秀久は、無一文の食い詰め牢人に転落してしまったのだった。普通の人間ならここで一生を終わるところだが、秀久は違った。 天正18年(1590)、秀吉の小田原・北条征伐を知った秀久は、生まれ故郷の美濃に戻って浪人たちを掻き集め、徳川家康に取り成しを依頼して、秀吉軍への参加を許された。この戦いで秀久は、自分の存在を強調すべく、白根りに日の丸の陣羽織と紺地に「無」の字を白く染めた馬印を掲げて先陣を切った。しかも陣羽織に鈴を縫い付けて「ジャラジャラ」と鳴らしたことから「鈴鳴り武者」とも呼ばれたという。そしていくつもの功を上げた。これによって秀吉は、再び秀久を見直し、戦後に信濃・小諸5万石を与えた。大名転落から復帰した奇跡的な武将が秀久であった。なお、秀吉没後の関ヶ原合戦では、家康の恩に報いるために東軍に所属し、秀忠政権でも信頼されて生きた。慶長19年(1614)63歳で病没。失敗を乗り越えてポジティブ(前向き)に生きることが成功に繋がることを秀久の人生は教えてくれている。
江宮 隆之