「バリバリ」「ブシュ、ブシュ」 P47の機銃掃射でいとこの足は血まみれに。米軍は駅を狙ったのだろう。待合室にいた3人が亡くなった【証言 語り継ぐ戦争】
眼科医の診察を終えた後、どういう理由かは分からないが、母は西都城駅近くの病院に立ち寄った。病院に入ると、空襲被災者とみられる、血まみれになった人々が床にずらりと寝かされていた。 失礼ながら、手足を失ったけが人が幽鬼のように見え、私はすっかり震え上がってしまった。夜、寝入る前にその光景が頭に浮かび、しばらく、便所に行くのも怖かった。 あれから79年になるが、4歳の頭に刻まれた戦争の記憶はわずかながら今なお鮮明だ。でも、その記憶があったからこそ、芙蓉(ふよう)部隊や幕末の戊辰戦争に岩川から出兵した私領5番隊など地域の歴史に興味を持ち、追い続けてきたように思う。 【メモ】岩川への空襲は1945年8月6日、都城大空襲に参加した米陸軍航空隊のP47戦闘機隊の一部が、沖縄基地への帰還途中に行ったものとみられる。同日以降の都城盆地への空襲については、市史などに具体的記述はないが、豊の国宇佐市塾(大分県宇佐市)が入手した米軍資料には、8~10日、鉄道施設などに米陸軍航空隊が小規模な空襲を行ったという記録がある。
(2024年8月16日付紙面掲載「写真館の一人息子㊦」より)
南日本新聞 | 鹿児島
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