「バリバリ」「ブシュ、ブシュ」 P47の機銃掃射でいとこの足は血まみれに。米軍は駅を狙ったのだろう。待合室にいた3人が亡くなった【証言 語り継ぐ戦争】
■澤俊文さん(83)鹿児島県曽於市大隅町岩川 【写真】岩川駅のすぐ近くにあった澤俊文さんが生まれた写真館(澤さん提供)
1945(昭和20)年8月6日、岩川町(現曽於市大隅町岩川)市街地は、米軍空襲に遭った。 父・貫一と母・カスミが営んでいた木造2階建ての写真館は、国鉄志布志線岩川駅近くで現在、鹿児島銀行岩川支店が建っている場所にあった。 4歳の私は、この日の正午すぎ、隣家の桑原病院の娘で幼なじみの桑原和子さんと写真館1階にある8畳間でかるた遊びに興じていた。隣の6畳間には、末吉高等女学校4年生だったいとこの二木雪子が、体調不良で学校を休み、寝ていた。 近くの岩川醸造敷地に立っていたレンガ造り煙突の上には、空襲警戒用の監視所があり、監視員が詰めていた。「敵機来襲ー」。監視員がメガホンで叫んだ瞬間、「バリバリ」というごう音とともに、窓ガラス数枚が砕け、体の左側の畳が「ブシュ、ブシュ」と音を立てて波打った。米軍機の機銃掃射だった。 いとこが「撃たれたー」と叫び、ふとんからはってきた。弾丸の砕けた破片がかかとの肉をそぎ取り、血まみれだ。破片は、2階スタジオに置いてあった大型カメラにも食い込んでいた。
何が起こったか理解できなかったが、ごう音といとこの出血に、恐怖を感じた。両隣の家と合同で設けていた防空壕(ごう)に家族で逃げ込んだ。壕には地下水が30センチほどたまっていた。20メートルも離れていない岩川駅では、待合室にいた3人が撃たれて亡くなっていた。米軍機は岩川駅を狙ったのだろう。 いとこは歩けるようにはなったが、完治には戦後、かなりの期間を費やした。 空襲から間もない日に、母と列車で都城市に向かった。母と私は目が悪く、市役所近くにあった眼科医院に定期的に通っていた。 途中の今町駅で一時、列車を降ろされるなど、空襲警戒は続いていた。到着した西都城駅では、帰りの切符を買うために窓口に並んだ。母と2人、列に並んでいると、「ジャー」「ドカーン」という、爆弾ようの何かが落ちてきてさく裂する音がする。「空襲だ。伏せろ」と声がかかり、地面に伏せた。 駅を出て、国道10号沿いの高野薬局に写真現像液を買いに行った。不快な音は断続的に続いていて、薬局では、従業員とともに蔵にしばし避難させてもらった。
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