「遺体のほとんどは黒焦げに…」富山大空襲を経験した女性の遺志を「語り継ぐ会」”記憶”をいかに後世に遺すか 長岡戦災資料館に学ぶ
戦後79年が経ち、戦争体験者が減少する中、富山大空襲の記憶の継承や資料の保存も年々難しくなっています。後世に伝えるための拠点を求めて市民団体が動き始めました。 【写真を見る】「遺体のほとんどは黒焦げに…」富山大空襲を経験した女性の遺志を「語り継ぐ会」”記憶”をいかに後世に遺すか 長岡戦災資料館に学ぶ 「ヒフただれミ痛む痛ましいムザンな姿である大声で「殺して呉(く)れー」と叫ぶ見ていられない」 これはある女性が描き残した富山大空襲の記憶です。 1945年8月2日未明の富山大空襲。 米軍のB29爆撃機が50万発以上の焼夷弾を投下し、市街地の99.5%が焼失。空襲を受けた地方都市では最悪の被害でした。死者は推定3千人にのぼりました。 若林ウタさんは当時20歳で富山大空襲を体験しました。 若林さんは、双子の娘に伝えようと、25枚にわたり、絵と文で空襲の記憶を描き残しました。 ■「遺体の殆は黒焦げに…」記憶に残る悲惨さ 朗読:「B29がたくさん編隊をなしてゆっくり向かって来る焼夷弾が火を吹いて落ちてゆく火の手が上がっている」 若林さんは母と妹と一緒に星井町小学校のため池に布団をかぶって逃げ込みました。 しばらくして、布団のすき間からのぞくと辺りは一面火の海で、大勢の人たちが逃げ惑っていました。3日、行方がわからない義理の兄を捜しに市街地に出るとー。 朗読:「両手足は救いを求める姿となって。コロコロに火膨(ひぶく)れしていて解らない」「一滴の涙さえ出ない」 朗読:「遺体の殆(ほとんど)は黒焦げばかりになって何所の誰か全々解らない」「光厳寺の前まで来るとすっかり焼けてしまった所に真黒の遺体が山と積まれている」「この中に義兄さんが居られると断念した」 若林さんは、この作品を娘に託し、2006年、81歳でこの世を去りました。 ■”戦争の記憶”をいかに後世に遺すか 富山大空襲の悲惨さを後世に伝えてほしいと、作品は、去年、娘の玲子さんから、市民団体「富山大空襲を語り継ぐ会」に寄贈されました。 富山大空襲を語り継ぐ会 柴田恵美子事務局長:「やっぱり若林さんが印象に残ったものを描くから訴える力ってあるでしょ。こんなたくさんの絵をこうやって描かれるっていうことは本当に伝えたいという思いがあったんでしょうね」