ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (26) 外山脩
これが、前章で触れたぺルー下りの一人であった。ここまで流れてきていたのである。中島又助と名乗った。偶々近くの煉瓦工場で働いていた。 ファゼンダから出た移民の中で、沖縄県人の場合、その多くが鉄道線路を辿って、最初の上陸地点サントスへ引き返した。沖縄に似た亜熱帯性の気候が、彼らを引きつけたといわれる。しかし言葉が判らない。どうすることも出来ず、その辺にへたり込んでしまった。 住民の報せで、サンパウロの皇国殖民から香山が出向いた。が、その問いかけに、彼らは返事もしなかった。皇国殖民の人間には、もう口をきく気にもなれなかったのだ。 その後、彼らは、窮すれば通ずで、男は荷揚げ人足や築港工事の人夫の仕事を得た。 海岸沿いに南下してバナナ作りに従事した者もかなりいた。沖縄はバナナの産地であり、その栽培に経験があったからである。 サントスから船でアルゼンチンへ渡った者もいた。アルゼンチンには、すでに日本人が移住しており、沖縄県人が多かった。それを頼った。 しかし全体で観ると、笠戸丸移民の彷徨組の大半は、サンパウロの市街地で仕事を求めた。 当時、サンパウロは人口三〇万余、裕福な市民の居住区には、美しい欧州風の建物が立ち並んでいた。そこで下男や女中の口を探した。笠戸丸以前にサンパウロ入りしていた日本人が、その仕事を斡旋、人情深い非日系人が雇った。 自分で、その欧州風の建物を一カ所一カ所訪ねて、身振り手振りで、仕事を求める積極派もいた。 以下は、よく知られた話だが、その積極派の中に二人の少年がいた。二人は街角で右と左に別れて、仕事を求めて歩いて行った。内一人が見付けた仕事先は賭博師の家だった。そこで働く内、自然、その少年はギャンブラーになった。バクチは名人級であったという。通称イッパチ、本名は儀保蒲太といった。 もう一人の少年が見付けた仕事先は歯医者だった。こちらは日系初の歯医者になった。金城盛吉といった。 彷徨談の中で愉快なのは、この二人の話だけである。 このほか、奥地での鉄道建設の工夫募集に応じて行った者もいた。奥地というのはサンパウロ州の西北部とマット・グロッソ州南部(後の南マ州)のことで、ノロエステ線の敷設工事が行われていたのである。 ただ、この仕事は苛酷で、その疲労と風土病で犠牲者が少なからず出た。 さらにサンパウロでも奥地でも、仕事にありつけず、飢えに迫られて盗みの真似をしたとか、女の場合街娼をしたとか……その種の話もある。 ソノ罪、 万死ニ値ス かくの如くで、笠戸丸移民の失敗と悲劇は、皇国殖民会社の「経験不足」「経営判断の誤り」「虚偽宣伝による移民募集」「通訳の人選のいい加減さ」「資金力の弱さ」そして何よりも「不誠実さ」から発していたことは明白である。総ての責任は、 「社長の水野龍にある!」 と断定できる。往時風に表現すれば、 「ソノ罪、万死ニ値ス」 ということになろう。 無論、悪意からではなかったろう。その粗放な性格が生んだ咎であった。 笠戸丸移民は━━その総てではないが━━生涯、皇国殖民と水野を許さなかったといわれる。筆者も、その怨念に直に接したことがある。一九六〇年代末、生存していた一人を取材中、何気なく、移住してきた経緯を訊いたときのことである。突如、吐き出すような怒鳴り声が返ってきた。 「移民会社に騙されたンだ!」 六十年も昔のことにしては、激し過ぎる声音であった。 水野の粗放さの被害者は、彼らだけではなかった。