西南戦争見越し米相場で大当たり 波乱万丈の「湯島将軍」 石崎政蔵(上)
米相場に出合い、トントン拍子の大当たり
開港して間もない横浜の知人宅に身を置いて一戦交える算段をするが、思うに任せない。再び東京に舞い戻り、日本橋の蛎殻町で米相場に遭遇して政蔵の人生が一変することとなる。 「相場こそわが業なり」と直感した政蔵は、猛者たちが陣取る蛎殻町で運だめしに少しばかりの金を投下すると、トントン拍子の大当たりで、あっという間に1000円近い大金を手中に収める。後世の史家は蛎殻町での緒戦の模様を次のように伝えている。 「素人ではあるが、なかなか奇警で、緻密周到なる頭脳よりくだす判断は誤らない。これまでの不遇悲境は一転して好運の時代は回ってきた。買い手に回れば米価は騰貴し、売り手に回ればたちまち下落するという始末、予想はまさに的中して、俗にいうトントン拍子の大当たり、たちどころに数百余円をもうけた」(岩崎錦城編「現代富豪奮闘成功録」)
西南戦争を見越して米買いまくる
政蔵が初めて米相場を張ったのは、中外商行会社(のちの東京米穀取引所)で明治9(1876)年には蛎殻町米商会所と改称する。 政蔵はほどなく蛎殻町米商会所の3等仲買人の資格を取得する。当時、仲買人の権利は1等仲買が500円、2等仲買が300円、3等だと100円で権利が買えたから、まだ人に自慢できるほどのものではない。 そして石崎の飛躍の端緒となる西南戦争(1877年)が近づいてくる。政府は戦費調達のため紙幣を乱発するに違いない、そうなれば米価をはじめ諸物価は暴騰する、と読んだ政蔵は買い方に陣取って米を買いまくる。米価は6円台(1石=150キロ)から一気に10円台を突破し、明治13(1880)年には12円台に突き進み、立会停止の事態にまで発展していく。 =敬称略
■石崎政蔵(1844~1916年)の横顔 弘化元(1844)年、下野(しもつけ)国の小山宿稲葉郡(栃木県小山市)、米穀肥料商・石崎太助の2男に生まれた。慶応3(1867)年、江戸に出る。風雲急を告げる幕末の江戸で商才を磨き、米相場師として成功、巨富を築く。明治21(1888)年には潤沢な資金で小山銀行を創設、頭取に就任する。しかし相場師の常として浮沈が激しく、一時は破産寸前に追い込まれたが、日清戦争景気で息を吹き返した。